「駅・鉄道施設」タグアーカイブ

スタンプ物語9・目黒駅

目黒区にはない目黒駅

茶屋坂のついでに目黒不動参詣

今回の目黒駅のスタンプは「爺々が茶屋」。歌川広重の「名所江戸百選」に描かれたものを再現しています。
目黒は江戸時代、将軍の鷹狩り場として知られ、また幕府の庇護を受けた目黒不動がありました。そして将軍が鷹狩や参詣の帰りに立ち寄る茶屋があり、3代将軍家光は百姓の彦次郎が営む茶屋を愛し、彦次郎に「爺、爺」と呼びかけたことから「爺々が茶屋(爺が茶屋ともいう)」という名がついたそうです。この茶屋に欠かせないのが落語噺に出てくる「目黒のサンマ」です。このあらすじを簡単に紹介すると、
「鷹狩で目黒に出かけた殿様が、腹が減ったところにサンマを焼く匂いが漂ってきたので、サンマを取り寄せてご飯のおかずにした。以来、殿様はサンマ中毒になり、家来にサンマを求めると、家臣たちは殿様の健康を気遣ってサンマを脂抜きのパサパサで出した。日本橋魚河岸で求めたサンマではあったが、これではうまいわけがない。殿様が『やっぱサンマは目黒(海から4kmほど離れた場所)に限る』というのがオチ」

この殿様のモデルが家光で、サンマを出したのが彦次郎といわれていますが、殿様は松江藩主松平出羽守という説もあります。「爺々が茶屋」のあった場所は、目黒駅から15分ほど歩いた現在の目黒区三田2丁目の茶屋坂下の一角にある「茶屋坂街かど公園」あたり。途中には「茶屋坂と爺々が茶屋」の案内板が立っています。
96年から始まった毎年9月第1または第2日曜に行われる「目黒さんま祭り」は、目黒駅から徒歩3分の誕生八幡神社手前が会場。無料の焼きたてサンマが振る舞われ、寄席などのイベントもありますが、混雑必至で行列は1時間待ちになるそうです。

現在も参詣客で賑わう目黒不動(目黒区下目黒3-20-26)は駅から徒歩13分。最寄駅では東急の不動前駅がありますが、ここからでも徒歩8分です。目黒不動は正式には泰叡山瀧泉寺といい、大同8年(808)の創建。元和元年(1615)の火災で本堂などを焼失しましたが、寛永元年(1624)に家光によって再建されました。三代将軍・家光が天海の建言で、江戸内に五つの不動(江戸五色不動)を選んだうちのひとつです。この五不動は五行説の五色にちなんだものといわれ、このため山手線の駅名にもなっている目黒・目白はじめ、目赤・目青・目黄と五色の不動が都内にあります。他にも江戸三十三箇所や関東三十六不動の札所でも知られ、境内には独鈷の滝や甘藷先生で知られる青木昆陽(1698~1769)の墓(写真右)なども点在しています。また、目黒駅から目黒通りを西へ徒歩10分のところには、隠れた人気スポットの目黒寄生虫館)(下目黒4-1-1)もあります。公式サイトはこちらです。
最後に余談ですが目黒駅は目黒区になく、所在地は品川区上大崎にあります。区名と駅名所在地が異なるケースは、山手線では他にも品川駅(港区高輪)にも見られます。代々木駅も旧千駄ヶ谷村だったのですが、こちらは区画整理で代々木1丁目となりました。
次回の停車駅は恵比寿駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。
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スタンプ物語8・五反田駅

開業100周年を迎え

スタンプもデザイン一新

五反田駅のスタンプは2011年にお江戸シリーズのデザインが変わりました。「国道1号線の上の駅」と書かれており、地図上で見るとちょうど駅の中央を突っ切る形で国道1号線が延びており、高架の長いホームが国道をまたいでいます。改札を出た北側が国道1号になるのですが、通行量は多いです。この国道1号は日本橋を起点に大阪に至る全長543.1キロの一般国道で、旧東海道の経路を踏襲する形で流れ、並走して東海道本線や東海道新幹線、東名高速道路なども敷設されています。国道は明治9年(1876)の太政官布告によって一等から三等まで分類され、道の幅員も等級によって規定が設けられました。同18年(1885)には番号が付与されますが、このときは東京~横浜が国道1号、横浜~大阪が国道2号でした。戦後の昭和27年(1952)には新道路法によって東京~大阪が一級国道1号線となり、昭和40年(1965)の道路法改正によって一級・二級の級別がなくなり、一般国道になりました。現在の国道2号線は大阪~北九州で山陽道に該当します。
五反田は目黒川の谷間の低地で、名の示すように田畑の規模を表す五反(一反は10a、300坪)の田に由来します。地名は旧大崎村の小字で、駅が開設された明治44年(1911)のときは一面農地だったといいます。昔から通っていた中原街道は、江戸虎ノ門から平塚中原(神奈川県平塚市)に至る東海道の脇道ですが、最初は江戸への最短として、江戸入り当初の徳川家康が利用し、幕府の鷹狩りにも使われていました。駅北側には三代将軍家光が鷹狩りの折に命名した雉子神社(品川区東五反田1-2-33)も残っています。のち東海道が幹線として整備されると、中原街道も通行量が激減しましたが、大名行列を避けられるため、沿道の農産物を最速で江戸に供給する物資輸送の道として利用されたといいます。

ところで五反田駅のお江戸シリーズスタンプは、2003年設置のもの印影が変わっています。旧スタンプは「愛の母子像と池田山公園」(現在はなし)。昭和49年(1974)に東京五反田ライオンズクラブによって建立された愛の母子像は、かつては東口にあり、待ち合わせ場所として知られていましたが、駅改修工事の際に撤去されました。現在は跡地に『ユニクロ』が建っていますが、愛の母子像の移設先は不明のままです。あの子どもが今にもずり落ちそうでおかしかった像は、どこへ行ってしまったのでしょうか?
江戸の面影を残すものとしては、東口から徒歩12分のところに池田山公園(東五反田5-4)があります。寛文10年(1670)に備前岡山藩池田家の下屋敷として下賜されたところです。高低差を活かした池泉回遊式の庭園は四季折々の花が美しい区民憩いの場。開園時間(9~17時、ただし7・8月は~18時)を制限しているため、整備も行き届いています。

当公園から徒歩5分のところには、皇后美智子さまの生家跡「ねむの木の庭」(東五反田5-19-5)もあります。昭和8年(1933)に建築された洋館の旧正田邸は、平成13年(2001)に故・正田英三郎氏の相続税の一部として国に物納され、一部では建物保存運動も行われましたが、平成15年(2003)3月には解体されました。その跡地が翌年に区立公園の「ねむの木の庭」として開放され、現在に至っています。
蛇足ですが、五反田駅は本年(2011年)の10月14日に開業100周年を迎えて式典が行われ、開業100年の記念スタンプ(右)も設置されています。こちらは期間限定のスタンプなので、お早目に押印することをおすすめします。
次回の停車駅は目黒駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

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スタンプ物語7・大崎駅

超近代的な駅舎に様変わり

お台場・湘南への分岐駅

スタンプの絵柄は、お江戸の史跡からはずれて「新駅舎とお台場」です。スタンプは「駅の顔」といいますので、たしかに近年急速に様変わりした駅舎と線区の様子を描くのもよいPRになるでしょう。大崎駅の新駅舎が完成したのは平成15年(2003)。前年の12月に東京臨海高速鉄道りんかい線天王洲アイル~大崎間の全線開業で、JR埼京線との相互乗り入れを開始しました。

スタンプの副題に「埼京線お台場まで直通」と書かれているのはそのためです。左上に描かれている観覧車が目印の建物はお台場のパレットタウン(写真左)です。りんかい線の最寄駅は東京テレポート駅で徒歩3分。新橋から接続するゆりかもめだと青海駅に直結していますが、大崎からりんかい線(写真右)に乗れば東京テレポートまでたったの10分です。
さらに平成13年(2001)12月に開業した湘南新宿ラインも当初は大崎を通過していましたが、りんかい線開業に伴い全列車が停車するようになりました。元々大崎は山手線の保守整備をする東京総合車両センターが隣接していたため、当駅発着の山手線電車が多いことで知られていました。しかし、りんかい線と山手貨物線を経由する湘南新宿ラインの分岐駅として、いまやターミナルの要所として生まれ変わりました。乗降客数も埼京線・りんかい線開業前と比べると2012年度で倍以上に増えています。

しかし、せっかくですので、お江戸に関する情報も付記しておきましょう。大崎は江戸期には天領や大名下屋敷があったところですが、工場群と駅前再開発で急速に変貌を遂げました。それでもお江戸の史跡は開発の狭間に残されています。新東口から山手通りを右へ進み、目黒川を渡って山手線ガードをくぐり、東海道本線と山手線にはさまれたところに、タクアン漬を考案したと伝わる沢庵和尚や江戸中期の国学者・歌人で知られる賀茂真淵が眠る東海寺大山墓地があります。駅から徒歩7~8分のところです。お茶漬けに欠かせないダイコンのタクアン漬けは元々備蓄食として以前からあったといわれますが、3代将軍家光が沢庵和尚の漬物をたいそうお気に入ったようで、和尚の没後、墓参りをした際に「沢庵漬けとせよ」と命じたことから、「タクアン漬け」といわれるようになったといいます(『守貞漫稿』)。一説には沢庵和尚の墓石(写真左)が漬物石に似ていることに由来しているともいわれますが、たしかに不思議な形状の墓石ですね。
近くには近代硝子工場発祥の地(写真右/品川区北品川4―11-5)で知られる「官営品川硝子製造所跡」の碑も立っています。前身は明治6年(1873)に東海寺境内に創設された興業社で、同9年(1876)に工部省に買収されて官営となりました。のち明治18年(1885)に民間に払い下げとなり、経営不振で同25年(1892)に解散。昭和36年(1961)に建物は撤去されましたが、煉瓦造り工場の一部は愛知県犬山市の明治村に移築・保存されています。
次回の停車駅は五反田駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

スタンプ物語6・品川駅

品川区でなく港区にある駅

旧東海道で昔ながらの旅を体感

品川は東海道の最初の宿駅で、スタンプには歌川広重の「東海道五十三次」が描かれています。すぐ近くに海があるように江戸時代は品川駅のあったところはまだ海でした。実際の旧宿場町は駅から徒歩10分ほどの八ツ山橋からで、八ツ山コミュニティー道路には、200mほどのミニ東海道が再現されています。
ここから旧東海道が京急本線に並行して続きます。一般的に知られているコースは、青物横丁までの3キロ、約2時間ですが、旧街道はこの先、立会川の先の鈴ヶ森刑場跡まで続き、ここで国道15号(第一京浜)と合流します。途中にはお休み処もたくさんありますので、マイペースで歩き、歩き疲れたら最寄の京急の駅から電車に乗るのがベターです。あまり歩き過ぎてしまうと本題から脱線してしまいますので、ここでは品川宿本陣跡までのコースを紹介しましょう。

品川駅から徒歩15分ほど歩き、旧東海道から南下して八ツ山通りを隔てたところ利田神社の境内に写真左の鯨塚(品川区東品川1-17-7)があります。碑文によれば、寛政10年(1798)に品川沖にクジラが迷い込み、漁師たちがこれを捕えました。体長九間一尺(約16.5m)、高さ六尺八寸(約2m)の大鯨だったそうで、江戸中の評判となり、時の11代将軍家斉が浜御殿(現・浜離宮恩賜庭園)で上覧しました。この鯨が解体されて骨を埋めた供養塔が鯨塚と呼ばれるようになりました。この近くには屋形船がたくさん碇泊する船着場もあり、海に近いことが実感できます。
この鯨塚から徒歩7分行った写真右の品川宿本陣跡(北品川2-7-21)は、聖蹟公園として整備されており、当時の間取りや歌川広重の絵画などがタイルで紹介されています。「聖蹟」の名がついているのは明治天皇の行在所が置かれたことに由来し、昭和13年(1938)に東京市の公園になりました。残念ながら往時の遺構は残っていないのですが、このまま西へ北馬場通りを行けば品川の鎮守で知られる品川神社(北品川3-7-15)があり、山手通りを行けば弘化元年(1844)築の社殿が残る荏原神社(北品川2-30―28)があります。そのまま山手通りをまっすぐ歩けば次の大崎駅まで抜けられますが、帰りは新馬場駅から京急で品川駅へ戻りましょう。

山手線は1周34.5キロですが、東京~品川間は線籍上では東海道本線で、正式な山手線の区間は品川~田端間20.6キロです。5・6番線の階段上付近には写真左のような山手線の0キロポストと湘南電車を模した郵便ポスト(投函可能)が立っています。キロポストと郵便ポストを引っ掛けたのでしょう。また山手線1番ホームには起点を示すプレート(写真右)があります。描かれている怪獣はゴジラで、これは昭和29年(1954)に東宝映画『ゴジラ』が上陸した地点が先述した八ツ山橋だったからです。ゴジラの進路は東京大空襲の米軍の経路と同じように設定されていますが、この八ツ山近くの品川沖にクジラが上陸したことを考えれば、クジラとゴジラの不思議な縁ですね。
プレートには鉄道発祥の地と書かれていますが、これは明治5年(1872)10月14日の新橋~横浜(現・桜木町)間の開業に先立つ6月12日に品川~横浜(現・桜木町)間が仮開業していたからで、新橋より先に開業した真の発祥の地になるわけです。そのため5・6・11・12番線の東海道本線ホームでは、『鉄道唱歌』の発車メロディが導入され、メロディの最後に蒸気機関車の汽笛も流れると粋な演出がはかられています。
次回の停車駅は大崎駅です。


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スタンプ物語5・田町駅

江戸を戦火から救った

二大巨頭の歴史的会談

田町といえば「勝海舟・西郷隆盛会談の碑」。昭和55年(1980)に設置された「わたしの旅スタンプ」の絵柄にもなりました。このときは勝海舟と西郷隆盛の顔が描かれていたのですが、これまた全然似てませんでした(笑)。碑のほうでは西郷隆盛が「南洲(なんしゅう)」となっていますが、これは西郷の称号です。碑は芝浦口(西口)から徒歩2分の第一田町ビル(港区芝5-33-8)の脇に建っています。この付近は江戸時代、薩摩藩邸があった場所でした。
慶応4年(1868)の正月3日、大坂から京都へ入ろうとした旧幕府軍と薩長軍が衝突。これが2年にわたって繰り広げらる戊辰戦争の始まりです。しかし、鳥羽・伏見の戦いでは、銃火器に勝る薩長の前に旧幕軍はあっけなく敗退。大坂城に戻った前将軍・徳川慶喜は6日夜に大坂城から脱出し、天保山沖に停泊中の開陽丸に乗船。12日には江戸へ帰還してしまいます。どうやら朝敵になるのを恐れて戦いを放棄してしまったのです。これに勢いづいた薩長軍は官軍として東海道・東山道・北陸道に別れて江戸に進軍。慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示しましたが、あくまで武力討伐にこだわる官軍は江戸城総攻撃を3月15日と決めていました。旧幕府の陸軍総裁として全権を任された勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を西郷の使者として派遣し、3月13・14日の両日、高輪の薩摩藩邸で西郷と会談、江戸無血開城が決定しました。江戸城は4月11日に明け渡され、官軍と交戦派の彰義隊が衝突した上野戦争を除けば、江戸の街は戦火から救われたのです。
ところで勝と西郷の会談ですが、このときが始めてではありません。元治元年(1864)9月11日の第一次長州征伐でも大坂で会談をしています。このとき西郷は幕府軍参謀の地位におり、長州藩にも厳しい処置をとる態度でいました。西郷は先の禁門の変では、長州藩との戦闘で負傷もしています。しかし、勝は幕臣にもかかわらず、幕府の命運を語り、諸外国に対峙するには開国し、一致団結して富国強兵するしかないと解いています。この会談によって西郷は目からウロコが落ち、のちに薩長同盟から討幕へと方針転換していきます。つまり勝と西郷の会談は、二度も歴史を変える重大な局面だったということです。

なお、この会談の碑からさほど遠くない場所に、薩摩屋敷跡の碑(港区芝5-7-15)も立っています。会談が行われた前年の慶応3年(1867)12月25日、庄内藩を中心に焼き討ちされた三田の薩摩藩邸で、これが鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争を誘引しました。この2つの石碑の揮毫(きごう)は、西郷隆盛の孫で、法務大臣も務めた吉之助(1906~97)によるものです。
次回の停車駅は品川駅です。


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