「駅・鉄道施設」タグアーカイブ

スタンプ物語12・原宿駅

明治神宮と竹下通り

聖地と若者文化が入り混じる

絵柄は「木造駅舎と明治神宮」。原宿の駅舎は大正13年(1924)竣工で、都内では最古の木造駅舎です。都内の木造駅舎では、他に2番目に古い中央本線国立駅南口もあったのですが、こちらは連続立体交差事業で平成18年(2006)10月に解体が始まり、12月までに撤去が完了しました。都内の変わりゆく風景――撮っておきたくても結局行けずじまいに終わったところもたくさんあります。ただ、原宿の場合は東側に聖地の明治神宮がありますので、都市開発も西側しかできず、今後も保存されてゆくでしょう。

東側に鬱蒼と茂る森が初詣で毎年最大の参詣客を誇る明治神宮(写真左)です。2011年度正月3が日は320万という目が回るほどの参拝客を集めました(※2012年度は現時点で未発表)。原宿の外回り線にある臨時ホーム(写真右)は、この正月三が日の明治神宮参詣などに使われています。
明治神宮の創建は大正9年(1920)で、明治天皇と昭憲皇太后が祀られています。ところで明治神宮の広大な境内(22万坪)を包む常緑樹や落葉樹の森は、太古の森を連想させますが、神宮ができる前は大半が農地や草地でした。江戸時代には加藤清正の下屋敷がありましたが、加藤家改易後は彦根藩井伊家の下屋敷となり、明治維新後に政府所管に移ったようです。大正4年(1915)から造林がはじまり、全国から約10万本の献木がなされました。こうして鎮守の杜として現在に至るわけです。この後世にも残る自然を創ったのは林学博士の本多静六で、他にも日比谷公園や大沼公園ほか国内の公園造成に多大な貢献をしています。まさに「国土づくりの神」といわれる方ですね。
原宿駅から代々木方面に向かうと天皇陛下専用のお召し列車の発着に使われる「宮廷ホーム」があり、その先に近代的な建物に囲まれて延命寺があります。すでに本堂や墓地の塀もコンクリートで、そこに押し付けられる形で庚申塔の石仏群が建っています。開発の波に呑まれながらも延宝8年(1680)や宝永7年(1710)などに造立された庚申塔だけが、江戸の生き証人になっているのです。

また、原宿は1970年代からファッションを中心とする若者文化で注目を浴びるようになり、80年代には竹下口から伸びる竹下通り(写真左)が竹の子族の影響で、歩行者天国として賑わうようになりました。モラル低下の問題で平成8年(1996)から浄化活動が始まり、歩行者天国も縮小されましたが、現在もなお人通りは絶えることなく続いています。竹下通りの出口近くには、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破ったことで知られる東郷平八郎(1848~1934)を祭神とする東郷神社(写真右/渋谷区神宮前1-5-3)が鎮座します。東郷平八郎は生前から神格化を嫌っていたようですが、昭和9年(1934)に亡くなると、全国から神社創建の要望と献金が相次ぎ、昭和15年(1940)に創建されました。それほどまでに東郷平八郎の人気が絶大なものだったということですが、神にされてしまった東郷は、あの世でどのように思っているのでしょうか?
次回の停車駅は代々木駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

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「猫の手」借りられる?たま駅長に部下誕生

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120105-OYT1T00485.htm

和歌山電鉄貴志駅(和歌山県紀の川市)のスーパー駅長、三毛猫「たま」(12歳)に5日、同じ雌の三毛猫「ニタマ」(1歳)が部下として配属された。
 たまが休みの日曜に駅長代行を務める。
 ニタマは「2番目のたま」などの意。同電鉄を運営する両備グループ(岡山市)の観光センターで飼われていた。
 たまはこの日、駅長就任5周年。式典でニタマに辞令を交付した同電鉄の小嶋光信社長は「これでたまも、多忙の時には『猫の手』が借りられる」と期待した(2012年1月5日11時53分 読売新聞)。

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山手線に新駅設置!

すでにスタンプ物語では通過してしまいましたが、田町駅品川駅の間に新駅を設置することが発表されました。詳しくはコチラですが、いちおう本文も掲載します。

【山手線、40年ぶりに新駅…品川―田町間】

JR東日本が山手線の品川―田町駅間(東京都港区)で、約40年ぶりに新駅を建設することがわかった。2013年度に新駅を含む周辺の再開発工事の着工を目指す。
 山手線の新駅は1971年に完成した西日暮里駅(荒川区)以来で、30駅目。再開発エリアは11年末、外資系企業の誘致を図る国の「国際戦略総合特区」に指定され、新駅は同エリアの利便性を高める要となる。
 新駅が予定されているのは、両駅間の港区港南、芝浦付近で、品川駅の北側約1キロの地点。両駅間は2・2キロと山手線の駅間で最も長い。新駅には並走する京浜東北線も停車する計画だ。
 品川駅は東海道新幹線が停車し、羽田空港までは京浜急行線で約15分で結ばれている。27年にはリニア中央新幹線で名古屋まで40分で行ける東京の新たな玄関口となるが、新駅は品川駅から所要約2分で、最も近いJR駅となる。
 再開発が計画されているのは、品川―田町駅間にある車両基地「田町車両センター」(20ヘクタール)の跡地約15ヘクタール。大規模なオフィス街や商業施設の建設が予定されている。国際便が拡大している羽田空港にも近いことから、今回の再開発エリアは、11年12月に国の「国際戦略総合特区」に指定された。国は特区で働く外国人の入国審査などに関する規制を緩和、都は特区内の企業の法人事業税の減免などで、外資系企業の誘致を図っていく。
 JR東では、北関東から上野駅が終着駅となっている宇都宮、常磐、高崎の3路線を東京駅まで延伸し、東海道線と直通運転する東北縦貫線を13年度中に完成させる予定で、その後は東海道線などの車両を止める車両基地が大幅に縮小される。再開発はこの空きスペースを活用する(2012年1月4日14時32分 読売新聞)。

山手線とはいえ、線籍上は東海道本線となりますが、新駅設置計画は以前からあり、駅名は仮称ですが「泉岳寺」と噂されています。同駅名はすでに京急本線・都営地下鉄浅草線にあり、両線の連絡駅としても機能し、東京方面からなら品川よりも乗換えが便利になります。そして駅名の通り、『忠臣蔵』で知られる赤穂義士の墓所がある泉岳寺の最寄駅となるのです。スタンプも「お江戸シリーズ」にちなむなら欠かせない印影になることが期待されますね。ちなみに都営地下鉄ではすでに右のようなスタンプ(ただし、現在はデザインが若干異なります)も設置されています。
新駅が開業しましたら、スタンプ物語でも追記しますのでお楽しみに!

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スタンプ物語11・渋谷駅

地名の由来となった金王丸と

欠かせない忠犬ハチ公・涙の物語

スタンプは東口から徒歩5分の「金王八幡宮」(渋谷3-5-12)です。江戸期には江戸八所八幡の一つとして崇敬を集めました。総漆塗りの現社殿は慶長17年(1612)、春日局が家光将軍決定の御礼として建立したといわれ、渋谷区最古の木造建築物。よく戦災から免れたものです。摩天楼のような高層ビルが建ち並ぶ喧騒の中に鎮座し、渋谷の街を見守り続けています。
渋谷の地名は、源頼朝の父義朝の腹心だった渋谷金王丸の姓に由来しています。ここに金王丸の一族渋谷氏の拠点・渋谷城がありました。神社自体は寛治6年(1092)、渋谷氏の祖河崎基家の創始でさらに500年以上前にさかのぼることになります。当初は元渋谷八幡宮といわれていましたが、金王丸の名声にちなみ現在の神社名になったそうです。
今回は来年の大河『平清盛』にちなんで、この渋谷金王丸にスポットを当ててみます。平治元年(1159)12月27日、平清盛に敗れた源義朝は、東国で再起をはかろうとして逃走。途中、義朝は家人の鎌田政家(正清)の舅にあたる尾張国野間(愛知県美浜町)の長田忠致を頼ることにしました。長田屋敷で新年を迎えて、出立しようとしていた正月3日、忠致は義朝をこのまま逃がすより、討ち取って平氏の恩賞に預かろうと画策。そこで武勇の誉れ高い義朝に朝風呂をすすめ、丸腰のところを3人の剛の者が襲うことにしたのです。しかし、入浴中の義朝には従者の金王丸が太刀を携えて控えていました。ところが用意周到に忠致は替えの服をそろえておらず、金王丸が服をとりに場を離れた隙に陰に潜んでいた長田の家来3名が湯殿に入り、義朝に襲いかかり、義朝は38歳で絶命したのです。服をとって湯殿に戻った金王丸は、たちまち3人を斬り伏せ、玄光法師とともに主君の仇を討とうとしたのですが、すでに長田父子は恩賞に預かるため、義朝の首を持って京都へ向かったあとでした。やむなく金王丸は野間を去り、義経の母常盤のもとを訪れて、義朝の最期を報告します。その後、義朝の菩提を弔うため、剃髪して僧侶となり諸国を行脚したといいますが、消息は不明で、全国に金王丸の墓が伝わっています。
また一説によれば、剃髪後は土佐坊昌俊と変名したといわれます。土佐坊は平家滅亡後の文治元年(1185)10月に頼朝の命を受け、京都の義経邸を襲撃し捕えられて斬られる人物です。もしこれが真実なら、前半生をみるとむしろ義経に親近感が湧きそうな気がしますが、敬愛する主君の子供同士が争うのをしのびなく、義経に討たれることを覚悟で志願したともとれます。『義経記(ぎけいき)』によれば、鞍馬で捕えられた土佐坊を義経は鎌倉へ返そうとしましたが、怖じることなく自ら死を願い出て斬られたといいます。

話が長くなってしまいましたが、渋谷駅といえば忘れてはならないのが、過去のスタンプ(現在はなし)にも描かれていた忠犬ハチ公です。JR駅では「ハチ公」の名のつく改札・出口も設けられており、駅前のハチ公像は待ち合わせ場所として人が切れることはありません。
 ハチは大正12年(1923)、秋田県大館市で生まれた秋田犬で、翌年から東京帝国大学農学部の上野英三郎博士に飼われることになりました。上野教授の邸宅は現在の東急百貨店本店周辺にあり、ハチは毎日最寄りの渋谷駅まで送り迎えしていました。だが、博士に可愛がれた幸せな日々も束の間、一年後の大正14年(1925)5月21日、上野博士は大学で急逝します。その後もハチは帰らぬ主人を毎日待ち続けました。
 ハチが有名になったのは、昭和7年(1932)、朝日新聞に「いとしや老犬物語」に掲載されてからで、以後、敬意を表して「ハチ公」と呼ばれ、忠犬の誉れとして全国的に有名になりました。初代の銅像はハチが存命中の昭和9年(1934)4月21日、渋谷駅前に建立。自身も除幕式に出席する華やかな舞台でした。
 銅像建立から一年後の昭和10年(1935)3月8日、ハチは渋谷駅の反対側にある稲荷橋付近でひっそりと息を引き取ります。享年13歳。遺体は渋谷駅に運ばれ、告別式は人と花輪で埋め尽くされました。この美談は尋常小学校の国定教科書(修身)でも、「恩を忘れるな」と紹介されています。
しかし、太平洋戦争が始まり、戦局が悪化した昭和19年(1944)10月、金属供出で回収。像は溶解されてしまい、像を制作した彫刻家の安藤照も東京大空襲の際に亡くなりました。終戦後、ハチ公像再建の声が高まり、昭和23年(1948)8月15日、渋谷駅前で再建されたハチ公像が除幕された。制作は安藤照の息子・士(たけし)です。

ところで、あまり知られていないことですが、ハチは台東区の上野公園にある国立科学博物館(入館600円/9~17時/月曜〈祝日の場合は翌日〉休)で会うことができます。ハチの死後に寄贈され、剥製が博物館の秋田犬の代表として展示されているのです。銅像や晩年の写真で見るハチは、左耳が皮膚病で垂れていますが、剥製は耳も復元されていますので、ハチと気づかず見落としてしまう人も多いようです。また、ハチの死因は解剖の結果、フィラリアの寄生であるといわれ、その臓器は文京区弥生の東京大学の農学資料館(入館無料/9~17時/土・日曜、祝日休館)で研究資料として展示されています。
次回の停車駅は原宿駅(2012年1月6日更新)です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。
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スタンプ物語10・恵比寿駅

ヱビスビールの商標が地名に

現在の庚申講はビールで乾杯!

スタンプの恵比寿様の像は西口にあります。縁起のよい駅名の恵比寿は、明治期に日本麦酒醸造会社(現・サッポロビール)が製造していた「ヱビスビール」の商標からつけられた地名です。明治34年(1901)、ビール工場から出荷専用の貨物駅として開設し、旅客営業をはじめたのは明治39年(1906)。当初は下渋谷といいましたが、工場周辺を「ゑびす」と呼ぶようになり、昭和3年(1928)には駅周辺の地名も「恵比寿」に改められました。また駅西口から徒歩3分のところにある恵比寿神社(恵比寿西1‐11)は、旧名を天津神社といいましたが、昭和34年(1959)の区画整理で遷座した際に、兵庫県西宮市の西宮神社から事代主命(恵比寿神)を勧請して合祀し、現在の神社名に改められています。

工場は昭和60年(1985)に都市化の開発に伴い、千葉県船橋市に移転。その跡地の再開発が平成3年(1991)からはじまり、1994年にはサッポロビール(現・サッポロホールディングス)によって高さ40階(167m)の恵比寿ガーデンプレイスタワーが竣工されました。スタンプに描かれたガーデンプレイスまでは駅から動く歩道「スカイウォーク」で直結。サッポロビールの本社もここに置かれ、新鮮なビールが試飲(有料)できるヱビスビール記念館も併設されているほか、38・39階には展望レストラン街が形成され、デートスポットとしても有名です。詳しくはこちらをご覧ください。

今回のスタンプはお江戸ではないのですが、江戸の史跡としては、西口から徒歩5分のところに寛文4年(1664)から明治38年(1905)まで7基の庚申塔(写真左/恵比寿西2‐11‐7)が建っています。
ここから東へ徒歩5分のところには渋谷川に架かる庚申橋があり、橋のたもとには寛政11年(1799)に建立された庚申橋供養碑(写真右/渋谷区東3‐17‐17)もあります。碑の四面には講中の個人名が刻まれており、地域も渋谷・麹町・赤坂・芝・麻布・四谷・大久保・池袋・市ケ谷・目黒・中野・世田谷・荻窪など広範囲にわたってみられ、現在は小さな道ですが、江戸期には重要な交通路だったことがうかがえます。
庚申信仰というのは60日ごとにある庚申の夜にうっかり寝てしまうとそのまま死んでしまうことがあると伝えられ、庚申の日は一晩中飲んだり食べたりしながら語り明かして眠らないように過ごし、その仲間を「庚申講」といいました。庚申講は平安期の清少納言『枕草子』にも登場するので、日本では古くから伝わっていたようですが、江戸期にはこれが民間に広まり盛んに行われていたようです。
現在では廃れてしまいましたが、地方では親睦会に置き換えて庚申講を行っているところもあるようです。しかし、「朝まで宴会」の伝統はしっかり受け継がれていますね。暮れになると盛んになり、「ヱビスビール」も欠かせませんが、くれぐれも飲みすぎは禁物です。
次回の停車駅は渋谷駅です。


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