「山手線」タグアーカイブ

スタンプ物語19・大塚駅

駅舎改築でスタンプもリニューアル

都電荒川線に乗って下町散歩を!

スタンプの絵柄は「駅舎と都電」です。山手線内では唯一都電荒川線に接続しており、大塚駅前停留所があります。ちょうど写真のように南口と都電を入れたようなアングルでしょうか。
この都電荒川線は三ノ輪橋~早稲田間12.2kmを走る路面電車です。かつては都内に縦横無尽に張り巡らされ、41系統最大総延長213kmにおよんだ交通網でしたが、モーターリゼーションと東京都交通局の経営悪化によって、昭和42年(1967)から昭和47年(1972)にかけて181kmの区間が廃止されました。都電荒川線は27系統と32系統を統合して、現在に至っています。当区間には30もの停留場が設けられ、下町や江戸の史跡散策には最適な路線です。料金は均一160円。1日乗車券は400円という格安で、3回乗ればモトがとれてしまうすぐれものです。のんびり散歩するなら都電に乗って移りゆく町の風景を楽しむのもいいかもしれません。沿線には荒川遊園地・飛鳥山公園・高岩寺(とげぬき地蔵)・雑司ヶ谷霊園・鬼子母神など見どころがたくさんあります。

ところで大塚駅のスタンプは、今回のシリーズでも印影が一度変更されています。かつては高架にもかかわらず、北口と南口が改札で分断されており、通り抜けるには都電のホームを歩くしかありませんでした。そのため印影も三角屋根が目印の南口駅舎が描かれていたのです(現在はなし)。南北自由通路が完成したのは平成21年(2009)10月からで、駅舎も駅ビル建設に伴い解体されました。そのためスタンプもリニューアルされたのです。2012年2月現在では南口駅ビルの建設が始まっており、印影も現在もの建設が進められているようですが、2013年秋の完成をめざしており、地上12階の建物になるようです。完成予想図はこちらでも見られます。この駅ビルが完成したらスタンプの印影も三度変更されるのでしょうか。移り変わる時の流れにスタンプコレクターもうかうかしていられませんね。

大塚駅周辺の史跡としては、南口徒歩2分のところに天祖神社(写真左)があります。大塚駅は文京区でなく豊島区にあり、現在は豊島区南大塚となっていますが、旧来は巣鴨と呼ばれていました。ここが旧巣鴨村の総鎮守でした。鎌倉期の元亨年間(1321~23)創建と伝わり、境内にある樹齢600年といわれる夫婦銀杏は太平洋戦争の際、空襲で焼け焦げになったのに、いつの間にか青々と葉をしげらせて生き返ったといいます。自然の生命力には感服しますね。また同じく南口から徒歩10分のところには東福寺があります。石段の参道には明治37年(1904)に建てられ道標の役割を果たした庚申塔や、付近に牧場があったことにちなむ「疫牛供養塔」(写真右)も建っています。
次回の停車駅は巣鴨駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

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スタンプ物語18・池袋駅

10分歩いて鬼子母神

駄菓子とおせん団子に舌鼓

池袋のスタンプは「鬼子母神とすすきみみずく」です。鬼子母神は昨日の目白駅からも近いのですが、池袋でも東口から明治通りを南下すれば徒歩10分程度です。このスタンプには池袋~雑司ヶ谷間をLRT(超低床式路面電車)で結ぶ構想への意図が込められているかもしれません。まだ未知数ですが、実現すれば鬼子母神へのアクセスもグッと便利になりますから。
本当は都電荒川線に鬼子母神前の停留場があり、そこからが至近なのですが、樹齢数百年のケヤキ並木の参道の先に法明寺鬼子母神堂があります。鬼子母神とはインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供(500人とも1000人ともいわれる)を産みました。しかし、性質は暴虐で近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。そこでお釈迦様が末の子を隠して、我が子を失う母の苦しみを悟らせ、仏教に帰依させたとのことです。
鬼子母神堂は永禄4年(1561)に山村丹右衛門が現在の目白台付近で鬼子母神像を掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりで、天正6年(1578)年に現在地に移ったといいます。現在の社殿は寛文4年(1664)の建立で、豪華な彫刻が施されており、東京都指定有形文化財に指定されています。

境内に一軒ある駄菓子の『上川口屋』(写真左)は江戸時代からの老舗で、毎年10月16~18日に行われる御会式大祭では『名所図会』にも描かれている郷土玩具すすきみみずく(写真右)を買うこともできます。1800年頃、病の母を看病する久米という娘が、家が貧しいため薬も買えず、鬼子母神にお祈りを続けていたところ、ある夜、夢枕に突然蝶(鬼子母神)が現れ、「すすきみみずく」の作り方を教えてくれました。これを門前で売ってみたところ、飛ぶように売れて母親の薬も買えるようになり、母の病気も治ったという孝行物語です。「すすきみみずく」はかつて数軒つくっているところがあったのですが、最後は鬼子母神脇の『音羽屋』だけになってしまい、その『音羽屋』も2010年に閉店してしまったそうです。後継者がいないのは悲しい限りですね。

「すすきみみずく」の閉店は寂しいですが、数年前に羽二重団子本舗澤野修一社長の尽力でおせん団子(写真左)が復活しました。おせん団子は鬼子母神に千人の子どもがいたことにあやかり、たくさんの子宝に恵まれるよにという願いに由来し、江戸期には鬼子母神参詣のお土産でも知られていました。鬼子母神境内の『大黒堂』で、毎週日曜と縁日(8・18・28日)におせん団子が売られています。
鬼子母神で最後にひとつ。扁額(写真右)をよくみてください。「鬼」の表記で第一画目の点がありません。これは鬼子母神が釈尊に諭されて改心し、角を外したという理由によります。

ところで池袋は現在でこそ新宿の次に乗降客数が多いのですが、明治28年(1895)に日本鉄道品川~赤羽間が開通したとき、何もない農村地帯だったため駅が設けられませんでした。明治35年(1902)にようやく信号所として開設し、その後、現在の山手線となる田端への支線を分岐する際に、当初予定されていた目白での分岐を、地形の問題や住民の反対で池袋に変更されたため、翌年に駅として昇格しました。しかし、その後も駅の東側に広大な巣鴨プリズンがあったため、思うように発展しませんでした。サンシャインシティや東武・西武の百貨店など派手な変貌を遂げるのは戦後のことです。

池袋にはそんな発展を記すような1985年9月30日の埼京線開業記念スタンプ(右)のほかに1988年3月13日の東北・高崎線の電車乗入記念スタンプ(2種類)が東口駅長室に保管されています(2012年1月現在)。もっとも駅長室までスタンプを押しに訪ねてくる客も稀のようなので、筆者が訪れたときは、ずいぶんと気持ちのよい応対に感激しましたが。
次回の停車駅は大塚駅です。


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スタンプ物語17・目白駅

江戸とは無縁な新駅舎が印影だが

目白不動は遠くても行く価値あり

目白駅のスタンプは「目白ろまんすテーション」。平成12年(2000)7月に完成した3代目駅舎です。開業は明治18年(1885)で、大正8年(1919)に改築され、全国初の橋上駅舎となりました。早稲田と同じ学生の街なのですが、こちらは学習院大学・川村学園女子大学と付属の小中高があり、女子学生であふれています。

周辺は学校敷地が多いのですが、少し足を延ばして15分ほど歩けば、駅の西側におとめ山公園(写真左)があります。おとめ山は「乙女山」でなく「御留山」と書き、江戸期は徳川家の狩猟地で一般の立ち入りが禁止されていました。敷地内の傾斜地から湧水が出ており、この清水を利用してホタルの養殖も行われ、毎年7月にはホタル鑑賞会も開催されます。まさに都心の秘境ですね。さらに道路を隔てた東側にも池があり、カルガモの親子の姿も見られます。公園を東西に分ける道路には「カルガモ横断注意」の標識までありますから微笑ましいですね。
反対に駅から目白通りを東へ500mほど歩くと都電荒川線が走っており、安産・子安で有名な鬼子母神がありますが、これは次のネタになってしまいますので、今回は割愛します。ちなみに目白の地名は江戸五街道守護の五色不動(目白・目赤・目青・目黄・目黒)のひとつ目白不動に由来しており、目白不動の金乗院(写真右)は、この先の豊島区高田にあり、駅から歩くと25分ほどかかります。まあ目白通りにはバスも走っていますので、鬼子母神のバス停で降りれば徒歩7分と近いですが。目白不動の墓地には慶安の変で刑死した丸橋忠弥(?~1651)や青柳文庫の青柳文蔵(1761~1839)の墓があり、他にも倶利伽羅不動庚申をはじめとする多くの庚申塔が見られます。
江戸の史跡以外では駅から徒歩3分のところに切手の博物館があります。日本および外国切手を約35万種収蔵し、3カ月ごとに企画展も催されます。入館料は200円ですが、1円以上の未使用切手(裏のりのない切手、目打ち欠け、折れのある切手、変色した切手は不可)も入館料に充てることができ、毎月23日の「ふみの日」は無料(23日が月曜休館日の場合は翌日)となるなど、いろいろとユニークな試みもしています。詳しくはこちらをご覧ください。
次回の停車駅は池袋駅です。


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スタンプ物語16・高田馬場駅

馬術訓練の馬場に由来

現在も流鏑馬が見られる

高田馬場の地名は、寛永13年(1636)に幕府によって造られた馬術の訓練場に由来しています。家康6男で越後高田藩主・平忠輝の生母高田殿の庭園があったことから「高田」ととったとも、一帯が高台であったことから「高田」と呼ばれていたともいいます。実際に高田馬場があった場所は旧戸塚村で、現在の西早稲田3丁目あたりですから、駅からは1kmほど東にあり、明らかに東京メトロ東西線早稲田駅のほうが最寄となります。スタンプに描かれていますのは、毎年10月に行われる流鏑馬(写真:東京新聞)です。鎌倉期の狩装束に身を包んだ射手が、約200mの直線を馬で疾走しながら3つの的を射抜いていく馬術で、西早稲田2丁目にある穴八幡神社の境内を出発した馬場行列は午後2時頃、戸山公園内の会場で流鏑馬を披露します。外国人にも人気の高い日本伝統行事。穴八幡には流鏑馬像も立っています。

江戸の史跡として近くには戸山公園もあります。園内にある箱根山(写真左)は山手線内で一番高い44.6mの人造の小山で、寛文年間(1661~73)に尾張藩主徳川光友によって回遊庭園が造られました。庭園図(写真右)は園内案内板でも見られますが、起伏のある公園は憩いの場となっています。

また、1999年に新宿指導センターが独自に製作した旧スタンプ(現在はなし)には、早稲田大学と水稲荷神社境内に建つ堀部安兵衛武庸加功績跡の碑が描かれていました。講談でもおなじみの「決闘高田馬場」です。元禄7年(1694)2月11日、御前試合で菅野六朗左衛門に負けた村上庄右衛門が、高田馬場で再決闘を申し込んだが、村上は菅野を騙し討ちにしようと、仲間を集め菅野は苦戦します。そこに菅野と叔父・甥の契りを結んだ中山安兵衛が助けに駆けつけて形勢逆転。不利になった村上らは逃げ出します。この安兵衛の武勇を聞いた赤穂藩士の堀部弥兵衛が娘婿に迎え、赤穂浪士の一人堀部安兵衛となるのです。
次回の停車駅は目白駅です。


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スタンプ物語15・新大久保駅

鉄炮隊が出陣する皆中稲荷神社

参拝すればギャンブルでも的中!?

スタンプに描かれる「鉄砲組百人隊」は、新大久保駅のすぐ西側にある皆中(かいちゅう)稲荷神社で、隔年の9月下旬に行われる「「江戸幕府 鉄炮組百人隊出陣の儀」」という催しです(右の写真は皆中稲荷神社にある案内板より抜粋)。スタンプでは「鉄砲」となっていますが、正しくは「鉄炮」と表記します。
昭和36年(1961)に江戸幕府鉄砲組百人隊保存会によって復活。甲冑に身をまとった鉄砲隊百人組が法螺貝の音とともに皆中稲荷神社から百人町を行進し、数箇所で実際に火薬を使った火縄銃の試射が行われます。現在は新宿区の無形民俗文化財に登録されており、すさまじい轟音はまさに迫力満点。2011年は9月25日(日)に開催されましたので、次回は2013年9月まで待たなくてはなりませんが、ぜひお忘れなきように。

この付近は徳川幕府の将軍警護を目的とした鉄砲組百人隊の屋敷があったところで、現在も「百人町」の地名が残っています。皆中稲荷神社(写真左)の創祀は天文2年(1533)と古く、鉄砲組与力がこの稲荷神社にお参りをしたところ、射撃が百発百中となり、「皆中(みなあたる)の稲荷」と呼ばれるようになったといわれています。その後、射撃だけではなく「当たる」ものに御利益があるということで、現在は「ギャンブルの神様」として親しまれているそうで、競馬(写真右)や競輪、競艇、サッカーくじや宝くじなどを当てたい方は一度参拝するとよいかもしれません(実際に筆者も馬券が当たりました)。
ところでこの鉄砲組百人隊屋敷は、時代考証家・名和弓雄氏の説によると、万が一、将軍が江戸城を追われた際に地下坑道で甲州へ抜ける退避路が設けられており、将軍警護のための要塞の役割を果たしたといわれます。皆中稲荷神社の拝殿にも抜け穴があり、江戸城の半蔵門から通じているといわれ、半蔵門といえば伊賀衆の頭領・服部半蔵に由来しています。鉄砲組百人隊というのは忍者で知られる伊賀・甲賀衆や、鉄砲の扱いに慣れていた雑賀衆および焔硝・弾丸の製造保管・配給を行った玉ぐすり方の青山組などで構成されていました。また、8代将軍吉宗が創設した幕府お抱えの忍び「お庭番衆」にも、吉宗の故郷・紀州から伴ってきた忍びのほかに、伊賀・甲賀衆がいたとされます。
江戸城は慶応4年(1868)に戊辰戦争で無血開城されたので、鉄砲組百人隊の出番はありませんでしたが、定期的に軍事演習があったことは確かで、その伝統は現在もなお受け継がれているのです。
なお、新大久保駅周辺はコリアンタウンと呼ばれ、韓国料理の店がたくさん並んでおり、韓流ブームでも賑わいをみせています。また、中央線大久保駅とは、大久保通りで200mほどしか離れておらず、そのまま大久保駅まで歩いても5分とかかりません。スタンプコレクターの方はこちらにも立ち寄るといいでしょう。
次回の停車駅は高田馬場駅です。


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