「わたしの旅スタンプ」タグアーカイブ

スタンプ物語13・代々木駅

駅の背後に控える摩天楼

宝物館へは北参道が最寄

山手線がいったん中央線と合流するのが代々木駅です。スタンプは「近代ビルと明治神宮北参道」。スタンプに描かれた近代ビルは2000年に竣工した「NTTドコモ代々木ビル」です。「近代ビル」とぼかしたのはビル名が長すぎるためでしょうか、あるいは使用許諾の問題があったのかもしれません。過去にスタンプに会社のロゴを入れて、後でその部分を削ったいわくつきのものがありましたから……。
代々木駅の東に位置し、ニューヨークのエンパイアステートビルを思わせる当ビルは地上27階高さ240m。都内では東京都庁第一本庁舎に次ぐ2番目の高さを誇りますが、内部の大半は通信機器とサーバで埋め尽くされ、ドコモ傘下の携帯電話のメールやパケットデータの配信を行っています。よって強固なセキュリティシステムによってガードされ、部外者は立ち入りできません。

原宿に続いて明治神宮が描かれているのは、それだけ明治神宮が広い証でしょう。ちなみに当神宮には代々木口と呼ばれる西参道もあり、こちらは小田急線参宮橋駅が最寄になります。
北参道(写真左)からだと明治神宮宝物殿(写真右)に近く、こちらへ行かれる方は代々木下車が便利です。ただし、開館は土・日曜、祝日が中心で、平日は開館していないので注意。奈良正倉院の校倉造りを模した建物は大正10年(1921)に竣工され、平成15年(2003)には東京都の歴史的建造物にも選定されていますので、一見だけでも価値はありますが。

代々木は新宿との駅間が700mしかなく、新宿御苑にも近いのですが、こちらは隣駅の中央線千駄ヶ谷が最寄りとなるため、当駅でのお江戸史跡はこれ以上言及できないのも事実です。でも代々木といえば気になるのは、B級廃墟スポットとして有名な代々木会館(写真左)です。代々木駅の西口隣にありながら築50年以上になろうかという6階建のビルで、かつて『傷だらけの天使たち』(1974-1975)のドラマのロケにも使わました。しかし、老朽化がひどく数年前から取り壊しが決まっていたようですが、テナント権利関係の複雑さから立ち退きが思うようにいかず、新築が遅れに遅れました。2007年頃まで健在だった飲食店(写真右)もすでに閉店しているのですが、ビル自体は2012年1月現在でも取り壊されることなく残っています。ただし、無断で立ち入ると住居侵入罪になりますので、外観を眺めるだけにしておきましょう。
次回の停車駅は新宿駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

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スタンプ物語12・原宿駅

明治神宮と竹下通り

聖地と若者文化が入り混じる

絵柄は「木造駅舎と明治神宮」。原宿の駅舎は大正13年(1924)竣工で、都内では最古の木造駅舎です。都内の木造駅舎では、他に2番目に古い中央本線国立駅南口もあったのですが、こちらは連続立体交差事業で平成18年(2006)10月に解体が始まり、12月までに撤去が完了しました。都内の変わりゆく風景――撮っておきたくても結局行けずじまいに終わったところもたくさんあります。ただ、原宿の場合は東側に聖地の明治神宮がありますので、都市開発も西側しかできず、今後も保存されてゆくでしょう。

東側に鬱蒼と茂る森が初詣で毎年最大の参詣客を誇る明治神宮(写真左)です。2011年度正月3が日は320万という目が回るほどの参拝客を集めました(※2012年度は現時点で未発表)。原宿の外回り線にある臨時ホーム(写真右)は、この正月三が日の明治神宮参詣などに使われています。
明治神宮の創建は大正9年(1920)で、明治天皇と昭憲皇太后が祀られています。ところで明治神宮の広大な境内(22万坪)を包む常緑樹や落葉樹の森は、太古の森を連想させますが、神宮ができる前は大半が農地や草地でした。江戸時代には加藤清正の下屋敷がありましたが、加藤家改易後は彦根藩井伊家の下屋敷となり、明治維新後に政府所管に移ったようです。大正4年(1915)から造林がはじまり、全国から約10万本の献木がなされました。こうして鎮守の杜として現在に至るわけです。この後世にも残る自然を創ったのは林学博士の本多静六で、他にも日比谷公園や大沼公園ほか国内の公園造成に多大な貢献をしています。まさに「国土づくりの神」といわれる方ですね。
原宿駅から代々木方面に向かうと天皇陛下専用のお召し列車の発着に使われる「宮廷ホーム」があり、その先に近代的な建物に囲まれて延命寺があります。すでに本堂や墓地の塀もコンクリートで、そこに押し付けられる形で庚申塔の石仏群が建っています。開発の波に呑まれながらも延宝8年(1680)や宝永7年(1710)などに造立された庚申塔だけが、江戸の生き証人になっているのです。

また、原宿は1970年代からファッションを中心とする若者文化で注目を浴びるようになり、80年代には竹下口から伸びる竹下通り(写真左)が竹の子族の影響で、歩行者天国として賑わうようになりました。モラル低下の問題で平成8年(1996)から浄化活動が始まり、歩行者天国も縮小されましたが、現在もなお人通りは絶えることなく続いています。竹下通りの出口近くには、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破ったことで知られる東郷平八郎(1848~1934)を祭神とする東郷神社(写真右/渋谷区神宮前1-5-3)が鎮座します。東郷平八郎は生前から神格化を嫌っていたようですが、昭和9年(1934)に亡くなると、全国から神社創建の要望と献金が相次ぎ、昭和15年(1940)に創建されました。それほどまでに東郷平八郎の人気が絶大なものだったということですが、神にされてしまった東郷は、あの世でどのように思っているのでしょうか?
次回の停車駅は代々木駅です。


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スタンプ物語5・田町駅

江戸を戦火から救った

二大巨頭の歴史的会談

田町といえば「勝海舟・西郷隆盛会談の碑」。昭和55年(1980)に設置された「わたしの旅スタンプ」の絵柄にもなりました。このときは勝海舟と西郷隆盛の顔が描かれていたのですが、これまた全然似てませんでした(笑)。碑のほうでは西郷隆盛が「南洲(なんしゅう)」となっていますが、これは西郷の称号です。碑は芝浦口(西口)から徒歩2分の第一田町ビル(港区芝5-33-8)の脇に建っています。この付近は江戸時代、薩摩藩邸があった場所でした。
慶応4年(1868)の正月3日、大坂から京都へ入ろうとした旧幕府軍と薩長軍が衝突。これが2年にわたって繰り広げらる戊辰戦争の始まりです。しかし、鳥羽・伏見の戦いでは、銃火器に勝る薩長の前に旧幕軍はあっけなく敗退。大坂城に戻った前将軍・徳川慶喜は6日夜に大坂城から脱出し、天保山沖に停泊中の開陽丸に乗船。12日には江戸へ帰還してしまいます。どうやら朝敵になるのを恐れて戦いを放棄してしまったのです。これに勢いづいた薩長軍は官軍として東海道・東山道・北陸道に別れて江戸に進軍。慶喜は上野の寛永寺に謹慎して恭順の意を示しましたが、あくまで武力討伐にこだわる官軍は江戸城総攻撃を3月15日と決めていました。旧幕府の陸軍総裁として全権を任された勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を西郷の使者として派遣し、3月13・14日の両日、高輪の薩摩藩邸で西郷と会談、江戸無血開城が決定しました。江戸城は4月11日に明け渡され、官軍と交戦派の彰義隊が衝突した上野戦争を除けば、江戸の街は戦火から救われたのです。
ところで勝と西郷の会談ですが、このときが始めてではありません。元治元年(1864)9月11日の第一次長州征伐でも大坂で会談をしています。このとき西郷は幕府軍参謀の地位におり、長州藩にも厳しい処置をとる態度でいました。西郷は先の禁門の変では、長州藩との戦闘で負傷もしています。しかし、勝は幕臣にもかかわらず、幕府の命運を語り、諸外国に対峙するには開国し、一致団結して富国強兵するしかないと解いています。この会談によって西郷は目からウロコが落ち、のちに薩長同盟から討幕へと方針転換していきます。つまり勝と西郷の会談は、二度も歴史を変える重大な局面だったということです。

なお、この会談の碑からさほど遠くない場所に、薩摩屋敷跡の碑(港区芝5-7-15)も立っています。会談が行われた前年の慶応3年(1867)12月25日、庄内藩を中心に焼き討ちされた三田の薩摩藩邸で、これが鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争を誘引しました。この2つの石碑の揮毫(きごう)は、西郷隆盛の孫で、法務大臣も務めた吉之助(1906~97)によるものです。
次回の停車駅は品川駅です。


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スタンプ物語4・浜松町駅

新旧の建造物が対照的

季節を衣装で示す小便小僧もお忘れなく

東京タワーの最寄駅が浜松町です。とはいえ北口から徒歩15分、約1kmありますので、東京メトロ日比谷線の神谷町駅か都営三田線御成門駅のほうが最寄といえますが……。
東京タワーといえば映画『ALWAYS三丁目の夕日』でもおなじみですが、昭和33年(1958)に竣工された高さ333mの集約電波塔です。昔は田舎の修学旅行で東京へ行くと、必ず「はとバス」のツアーで立ち寄りました。ペナントや置物のカレンダーなど、ひと昔前のおみやげは懐かしいものです。タワーには高さ150mと大展望台と高さ250mの特別展望台がありますが、だいたい修学旅行では大展望台までしか登らせてくれません。特別展望台はさらに料金がかかってしまうからです。他にも蝋人形館やギネスワールドレコードミュージアム、トリックアートギャラリー、東京タワー水族館など楽しげな施設が目白押しです。ところでこの東京タワー、平成23年(2011)7月24日のアナログ放送終了で、その使命をまっとうしました。その後、放送局は次々と墨田区押上の東京スカイツリー(高さ634mは世界一)へ移転していますが、NHKと民放5社は東京タワーを予備電波塔として使用していく方針で、その後も文化遺産として残されてゆくことでしょう。

徳川家霊廟の秀忠と江(崇源院)夫妻の合祀墓ですが、元々は別々でした。秀忠の霊廟が戦災で焼失したため、江の石造宝塔を共用することになったわけです。

東京タワーの東側にあり、スタンプにも新旧対照的に描かれている建物が芝増上寺の大殿です。昭和49年(1974)の再建ですが、その荘厳さを失っていません。開山は明応4年(1393)で、慶長3年(1598)に現地に移転し、徳川家康および歴代将軍の手厚い保護を受けました。徳川家の霊廟があることでも知られ、歴代将軍のうち2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂と6人が眠っています。墓所は通常非公開で、 4月上旬の御忌大会などの特別な日しか公開されません。ただし、平成23年(2011)は大河ドラマ『江~姫たちの戦国』の放映にちなみ、通年公開(年末は休み)され、平成24年(2012)1月末日まで特別拝観が実施されています。拝観料は500円(記念品付)で10~16時。ただし例年の特別公開日は無料(記念品なし)となります。この機会に秀忠&江夫妻が合祀された宝塔をぜひお参りされてはどうでしょうか。詳しくは当寺のWEBをご覧ください。
この増上寺、江戸時代には日光東照宮に劣らぬほどの絢爛さを誇ったといいますが、政教分離で境内の大半が芝公園となり、貴重な霊廟や五重塔なども戦災で失われてしまったそうです。それでもお江戸の華やかさを体感するにはおすすめのスポットといえましょう。
また、駅東側には旧芝離宮恩賜庭園(写真右)もあります。延宝6年(1678)に老中で小田原城主の大久保忠朝が当地を拝領し、貞享3年(1686)に楽寿園を造園。その後、堀田家、清水家、紀州徳川家の所有を経て、明治4年(1871)には有栖川宮邸となり、同9年に芝離宮となりました。浜離宮同様、迎賓館として洋館が新築されましたが、大正12年(1923)の関東大震災で洋館を焼失し、翌年に昭和天皇の御成婚を記念して東京市(現・東京都)に下賜され、一般公開に至っています。
ここも浜離宮同様、回遊式汐入り林泉庭園ですが、周囲の埋め立てで海の眺望は失われ、鉄道の増設用地提供などで庭園面積は小さくなりましたが、往時の大名庭園の面影を色濃く残しています。詳しくはこちらをご覧ください。

最後に浜松町といえば、かつてのスタンプ(現在はありません)に描かれていた小便小僧の存在を忘れてはいけません。3・4番線ホームの田町寄りにあります。この像は昭和27年(1952)に、地方からの旅人を癒す目的で当時の新橋駅歯科医小林光氏によって寄贈されました。その後、昭和61年(1986)に防火用PRの衣装を着せたことから、以後、地元のボランティアによって、月ごとに着せ替えがあり、その移り変わりをギャラリーで見ることができます。駅のマスコットとして愛され続ける小便小僧も還暦を迎えようとしていますが、放水の勢いは衰えることがありません。
次回の停車駅は田町駅です。


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スタンプ物語3・新橋駅

汽笛一声・新橋から

ビル街のオアシス浜離宮を散歩

開業当初の新橋(汐留)駅(『回顧八十年史』)。右の復元された旧新橋停車場と見比べてみましょう。

鉄道唱歌でおなじみ「汽笛一声」の新橋駅です。
明治5年(1872)10月14日、新橋~横浜(現・桜木町)間に日本初の鉄道が正式開業し、以来10月14日は鉄道記念日となっています。まあ、ちょっと鉄道に詳しい方なら現在の新橋駅は大正3年(1914)に烏森駅から改称された駅で、旧新橋駅は国鉄の貨物駅となった汐留駅ということはご存知でしょう。その汐留駅も昭和61年(1986)に廃止され、跡地は国の史跡に指定。平成15年(2003)には旧新橋駅停車場として、開業当時の駅舎が再現されています。鉄道歴史展示室として無料で入館(月曜休)できますので、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか? 新橋駅汐留口から歩いて5分です。詳しくはこちらをご覧ください。

本題のスタンプは浜離宮恩賜庭園。新橋駅汐留口から徒歩12分のところにあります。これぞ徳川将軍家ゆかりの庭園。承応3年(1654)、甲府藩主松平綱重(6代将軍家宣の父)が当地に別邸を建てたのが始まりで、将軍家宣の代に大幅な改修が行われたといいます。江戸時代は浜御殿と呼ばれていましたが、明治以降は宮内庁の管轄となり、浜離宮と改められ、外国人を接待する迎賓館としても用いられました。戦後、都に下賜され、昭和21年(1946)に都立庭園として一般に開放されるようになりました。
四季折々の花も見事ですが、当園の魅力は東京湾の海水を引き入れた「潮入りの池」でしょう。池にボラやセイゴ、ハゼなどが泳いでいるってなんか竜宮城の趣がありませんか(乙姫様はいませんが)。それに四季の花々や野鳥の宝庫としても知られ、水上バスの発着地にもなっています。浅草・両国およびお台場や葛西臨海公園などへはちょっとしたクルーズもおもしろいかもしれません。詳細はこちらをご覧ください。

現在は破棄されてしまったようですが、これ以前のスタンプでは、鉄道唱歌の碑とSLが描かれていました。鉄道唱歌は明治33年(1900)に大和田建樹の作詞で、駅前には鉄道唱歌の歌碑とSLのC58の動輪があります。さらに日比谷口のSL広場には、C11が静態保存されており、12時、15時、18時の1日3回汽笛が数秒間鳴るそうです。汽笛に耳をすませば、やはり新橋は「鉄道発祥の地」ということが実感できるのではないでしょうか。
次回の停車駅は浜松町です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。