「名所・旧跡」タグアーカイブ

スタンプ物語17・目白駅

江戸とは無縁な新駅舎が印影だが

目白不動は遠くても行く価値あり

目白駅のスタンプは「目白ろまんすテーション」。平成12年(2000)7月に完成した3代目駅舎です。開業は明治18年(1885)で、大正8年(1919)に改築され、全国初の橋上駅舎となりました。早稲田と同じ学生の街なのですが、こちらは学習院大学・川村学園女子大学と付属の小中高があり、女子学生であふれています。

周辺は学校敷地が多いのですが、少し足を延ばして15分ほど歩けば、駅の西側におとめ山公園(写真左)があります。おとめ山は「乙女山」でなく「御留山」と書き、江戸期は徳川家の狩猟地で一般の立ち入りが禁止されていました。敷地内の傾斜地から湧水が出ており、この清水を利用してホタルの養殖も行われ、毎年7月にはホタル鑑賞会も開催されます。まさに都心の秘境ですね。さらに道路を隔てた東側にも池があり、カルガモの親子の姿も見られます。公園を東西に分ける道路には「カルガモ横断注意」の標識までありますから微笑ましいですね。
反対に駅から目白通りを東へ500mほど歩くと都電荒川線が走っており、安産・子安で有名な鬼子母神がありますが、これは次のネタになってしまいますので、今回は割愛します。ちなみに目白の地名は江戸五街道守護の五色不動(目白・目赤・目青・目黄・目黒)のひとつ目白不動に由来しており、目白不動の金乗院(写真右)は、この先の豊島区高田にあり、駅から歩くと25分ほどかかります。まあ目白通りにはバスも走っていますので、鬼子母神のバス停で降りれば徒歩7分と近いですが。目白不動の墓地には慶安の変で刑死した丸橋忠弥(?~1651)や青柳文庫の青柳文蔵(1761~1839)の墓があり、他にも倶利伽羅不動庚申をはじめとする多くの庚申塔が見られます。
江戸の史跡以外では駅から徒歩3分のところに切手の博物館があります。日本および外国切手を約35万種収蔵し、3カ月ごとに企画展も催されます。入館料は200円ですが、1円以上の未使用切手(裏のりのない切手、目打ち欠け、折れのある切手、変色した切手は不可)も入館料に充てることができ、毎月23日の「ふみの日」は無料(23日が月曜休館日の場合は翌日)となるなど、いろいろとユニークな試みもしています。詳しくはこちらをご覧ください。
次回の停車駅は池袋駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

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スタンプ物語16・高田馬場駅

馬術訓練の馬場に由来

現在も流鏑馬が見られる

高田馬場の地名は、寛永13年(1636)に幕府によって造られた馬術の訓練場に由来しています。家康6男で越後高田藩主・平忠輝の生母高田殿の庭園があったことから「高田」ととったとも、一帯が高台であったことから「高田」と呼ばれていたともいいます。実際に高田馬場があった場所は旧戸塚村で、現在の西早稲田3丁目あたりですから、駅からは1kmほど東にあり、明らかに東京メトロ東西線早稲田駅のほうが最寄となります。スタンプに描かれていますのは、毎年10月に行われる流鏑馬(写真:東京新聞)です。鎌倉期の狩装束に身を包んだ射手が、約200mの直線を馬で疾走しながら3つの的を射抜いていく馬術で、西早稲田2丁目にある穴八幡神社の境内を出発した馬場行列は午後2時頃、戸山公園内の会場で流鏑馬を披露します。外国人にも人気の高い日本伝統行事。穴八幡には流鏑馬像も立っています。

江戸の史跡として近くには戸山公園もあります。園内にある箱根山(写真左)は山手線内で一番高い44.6mの人造の小山で、寛文年間(1661~73)に尾張藩主徳川光友によって回遊庭園が造られました。庭園図(写真右)は園内案内板でも見られますが、起伏のある公園は憩いの場となっています。

また、1999年に新宿指導センターが独自に製作した旧スタンプ(現在はなし)には、早稲田大学と水稲荷神社境内に建つ堀部安兵衛武庸加功績跡の碑が描かれていました。講談でもおなじみの「決闘高田馬場」です。元禄7年(1694)2月11日、御前試合で菅野六朗左衛門に負けた村上庄右衛門が、高田馬場で再決闘を申し込んだが、村上は菅野を騙し討ちにしようと、仲間を集め菅野は苦戦します。そこに菅野と叔父・甥の契りを結んだ中山安兵衛が助けに駆けつけて形勢逆転。不利になった村上らは逃げ出します。この安兵衛の武勇を聞いた赤穂藩士の堀部弥兵衛が娘婿に迎え、赤穂浪士の一人堀部安兵衛となるのです。
次回の停車駅は目白駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

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スタンプ物語12・原宿駅

明治神宮と竹下通り

聖地と若者文化が入り混じる

絵柄は「木造駅舎と明治神宮」。原宿の駅舎は大正13年(1924)竣工で、都内では最古の木造駅舎です。都内の木造駅舎では、他に2番目に古い中央本線国立駅南口もあったのですが、こちらは連続立体交差事業で平成18年(2006)10月に解体が始まり、12月までに撤去が完了しました。都内の変わりゆく風景――撮っておきたくても結局行けずじまいに終わったところもたくさんあります。ただ、原宿の場合は東側に聖地の明治神宮がありますので、都市開発も西側しかできず、今後も保存されてゆくでしょう。

東側に鬱蒼と茂る森が初詣で毎年最大の参詣客を誇る明治神宮(写真左)です。2011年度正月3が日は320万という目が回るほどの参拝客を集めました(※2012年度は現時点で未発表)。原宿の外回り線にある臨時ホーム(写真右)は、この正月三が日の明治神宮参詣などに使われています。
明治神宮の創建は大正9年(1920)で、明治天皇と昭憲皇太后が祀られています。ところで明治神宮の広大な境内(22万坪)を包む常緑樹や落葉樹の森は、太古の森を連想させますが、神宮ができる前は大半が農地や草地でした。江戸時代には加藤清正の下屋敷がありましたが、加藤家改易後は彦根藩井伊家の下屋敷となり、明治維新後に政府所管に移ったようです。大正4年(1915)から造林がはじまり、全国から約10万本の献木がなされました。こうして鎮守の杜として現在に至るわけです。この後世にも残る自然を創ったのは林学博士の本多静六で、他にも日比谷公園や大沼公園ほか国内の公園造成に多大な貢献をしています。まさに「国土づくりの神」といわれる方ですね。
原宿駅から代々木方面に向かうと天皇陛下専用のお召し列車の発着に使われる「宮廷ホーム」があり、その先に近代的な建物に囲まれて延命寺があります。すでに本堂や墓地の塀もコンクリートで、そこに押し付けられる形で庚申塔の石仏群が建っています。開発の波に呑まれながらも延宝8年(1680)や宝永7年(1710)などに造立された庚申塔だけが、江戸の生き証人になっているのです。

また、原宿は1970年代からファッションを中心とする若者文化で注目を浴びるようになり、80年代には竹下口から伸びる竹下通り(写真左)が竹の子族の影響で、歩行者天国として賑わうようになりました。モラル低下の問題で平成8年(1996)から浄化活動が始まり、歩行者天国も縮小されましたが、現在もなお人通りは絶えることなく続いています。竹下通りの出口近くには、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破ったことで知られる東郷平八郎(1848~1934)を祭神とする東郷神社(写真右/渋谷区神宮前1-5-3)が鎮座します。東郷平八郎は生前から神格化を嫌っていたようですが、昭和9年(1934)に亡くなると、全国から神社創建の要望と献金が相次ぎ、昭和15年(1940)に創建されました。それほどまでに東郷平八郎の人気が絶大なものだったということですが、神にされてしまった東郷は、あの世でどのように思っているのでしょうか?
次回の停車駅は代々木駅です。


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※スタンプは紛失・摩滅・取替などの事情により、ない場合もございますのでご了承ください。また、駅員のいない時間帯は押せないこともありますのでご注意ください。

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スタンプ物語11・渋谷駅

地名の由来となった金王丸と

欠かせない忠犬ハチ公・涙の物語

スタンプは東口から徒歩5分の「金王八幡宮」(渋谷3-5-12)です。江戸期には江戸八所八幡の一つとして崇敬を集めました。総漆塗りの現社殿は慶長17年(1612)、春日局が家光将軍決定の御礼として建立したといわれ、渋谷区最古の木造建築物。よく戦災から免れたものです。摩天楼のような高層ビルが建ち並ぶ喧騒の中に鎮座し、渋谷の街を見守り続けています。
渋谷の地名は、源頼朝の父義朝の腹心だった渋谷金王丸の姓に由来しています。ここに金王丸の一族渋谷氏の拠点・渋谷城がありました。神社自体は寛治6年(1092)、渋谷氏の祖河崎基家の創始でさらに500年以上前にさかのぼることになります。当初は元渋谷八幡宮といわれていましたが、金王丸の名声にちなみ現在の神社名になったそうです。
今回は来年の大河『平清盛』にちなんで、この渋谷金王丸にスポットを当ててみます。平治元年(1159)12月27日、平清盛に敗れた源義朝は、東国で再起をはかろうとして逃走。途中、義朝は家人の鎌田政家(正清)の舅にあたる尾張国野間(愛知県美浜町)の長田忠致を頼ることにしました。長田屋敷で新年を迎えて、出立しようとしていた正月3日、忠致は義朝をこのまま逃がすより、討ち取って平氏の恩賞に預かろうと画策。そこで武勇の誉れ高い義朝に朝風呂をすすめ、丸腰のところを3人の剛の者が襲うことにしたのです。しかし、入浴中の義朝には従者の金王丸が太刀を携えて控えていました。ところが用意周到に忠致は替えの服をそろえておらず、金王丸が服をとりに場を離れた隙に陰に潜んでいた長田の家来3名が湯殿に入り、義朝に襲いかかり、義朝は38歳で絶命したのです。服をとって湯殿に戻った金王丸は、たちまち3人を斬り伏せ、玄光法師とともに主君の仇を討とうとしたのですが、すでに長田父子は恩賞に預かるため、義朝の首を持って京都へ向かったあとでした。やむなく金王丸は野間を去り、義経の母常盤のもとを訪れて、義朝の最期を報告します。その後、義朝の菩提を弔うため、剃髪して僧侶となり諸国を行脚したといいますが、消息は不明で、全国に金王丸の墓が伝わっています。
また一説によれば、剃髪後は土佐坊昌俊と変名したといわれます。土佐坊は平家滅亡後の文治元年(1185)10月に頼朝の命を受け、京都の義経邸を襲撃し捕えられて斬られる人物です。もしこれが真実なら、前半生をみるとむしろ義経に親近感が湧きそうな気がしますが、敬愛する主君の子供同士が争うのをしのびなく、義経に討たれることを覚悟で志願したともとれます。『義経記(ぎけいき)』によれば、鞍馬で捕えられた土佐坊を義経は鎌倉へ返そうとしましたが、怖じることなく自ら死を願い出て斬られたといいます。

話が長くなってしまいましたが、渋谷駅といえば忘れてはならないのが、過去のスタンプ(現在はなし)にも描かれていた忠犬ハチ公です。JR駅では「ハチ公」の名のつく改札・出口も設けられており、駅前のハチ公像は待ち合わせ場所として人が切れることはありません。
 ハチは大正12年(1923)、秋田県大館市で生まれた秋田犬で、翌年から東京帝国大学農学部の上野英三郎博士に飼われることになりました。上野教授の邸宅は現在の東急百貨店本店周辺にあり、ハチは毎日最寄りの渋谷駅まで送り迎えしていました。だが、博士に可愛がれた幸せな日々も束の間、一年後の大正14年(1925)5月21日、上野博士は大学で急逝します。その後もハチは帰らぬ主人を毎日待ち続けました。
 ハチが有名になったのは、昭和7年(1932)、朝日新聞に「いとしや老犬物語」に掲載されてからで、以後、敬意を表して「ハチ公」と呼ばれ、忠犬の誉れとして全国的に有名になりました。初代の銅像はハチが存命中の昭和9年(1934)4月21日、渋谷駅前に建立。自身も除幕式に出席する華やかな舞台でした。
 銅像建立から一年後の昭和10年(1935)3月8日、ハチは渋谷駅の反対側にある稲荷橋付近でひっそりと息を引き取ります。享年13歳。遺体は渋谷駅に運ばれ、告別式は人と花輪で埋め尽くされました。この美談は尋常小学校の国定教科書(修身)でも、「恩を忘れるな」と紹介されています。
しかし、太平洋戦争が始まり、戦局が悪化した昭和19年(1944)10月、金属供出で回収。像は溶解されてしまい、像を制作した彫刻家の安藤照も東京大空襲の際に亡くなりました。終戦後、ハチ公像再建の声が高まり、昭和23年(1948)8月15日、渋谷駅前で再建されたハチ公像が除幕された。制作は安藤照の息子・士(たけし)です。

ところで、あまり知られていないことですが、ハチは台東区の上野公園にある国立科学博物館(入館600円/9~17時/月曜〈祝日の場合は翌日〉休)で会うことができます。ハチの死後に寄贈され、剥製が博物館の秋田犬の代表として展示されているのです。銅像や晩年の写真で見るハチは、左耳が皮膚病で垂れていますが、剥製は耳も復元されていますので、ハチと気づかず見落としてしまう人も多いようです。また、ハチの死因は解剖の結果、フィラリアの寄生であるといわれ、その臓器は文京区弥生の東京大学の農学資料館(入館無料/9~17時/土・日曜、祝日休館)で研究資料として展示されています。
次回の停車駅は原宿駅(2012年1月6日更新)です。


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スタンプ物語10・恵比寿駅

ヱビスビールの商標が地名に

現在の庚申講はビールで乾杯!

スタンプの恵比寿様の像は西口にあります。縁起のよい駅名の恵比寿は、明治期に日本麦酒醸造会社(現・サッポロビール)が製造していた「ヱビスビール」の商標からつけられた地名です。明治34年(1901)、ビール工場から出荷専用の貨物駅として開設し、旅客営業をはじめたのは明治39年(1906)。当初は下渋谷といいましたが、工場周辺を「ゑびす」と呼ぶようになり、昭和3年(1928)には駅周辺の地名も「恵比寿」に改められました。また駅西口から徒歩3分のところにある恵比寿神社(恵比寿西1‐11)は、旧名を天津神社といいましたが、昭和34年(1959)の区画整理で遷座した際に、兵庫県西宮市の西宮神社から事代主命(恵比寿神)を勧請して合祀し、現在の神社名に改められています。

工場は昭和60年(1985)に都市化の開発に伴い、千葉県船橋市に移転。その跡地の再開発が平成3年(1991)からはじまり、1994年にはサッポロビール(現・サッポロホールディングス)によって高さ40階(167m)の恵比寿ガーデンプレイスタワーが竣工されました。スタンプに描かれたガーデンプレイスまでは駅から動く歩道「スカイウォーク」で直結。サッポロビールの本社もここに置かれ、新鮮なビールが試飲(有料)できるヱビスビール記念館も併設されているほか、38・39階には展望レストラン街が形成され、デートスポットとしても有名です。詳しくはこちらをご覧ください。

今回のスタンプはお江戸ではないのですが、江戸の史跡としては、西口から徒歩5分のところに寛文4年(1664)から明治38年(1905)まで7基の庚申塔(写真左/恵比寿西2‐11‐7)が建っています。
ここから東へ徒歩5分のところには渋谷川に架かる庚申橋があり、橋のたもとには寛政11年(1799)に建立された庚申橋供養碑(写真右/渋谷区東3‐17‐17)もあります。碑の四面には講中の個人名が刻まれており、地域も渋谷・麹町・赤坂・芝・麻布・四谷・大久保・池袋・市ケ谷・目黒・中野・世田谷・荻窪など広範囲にわたってみられ、現在は小さな道ですが、江戸期には重要な交通路だったことがうかがえます。
庚申信仰というのは60日ごとにある庚申の夜にうっかり寝てしまうとそのまま死んでしまうことがあると伝えられ、庚申の日は一晩中飲んだり食べたりしながら語り明かして眠らないように過ごし、その仲間を「庚申講」といいました。庚申講は平安期の清少納言『枕草子』にも登場するので、日本では古くから伝わっていたようですが、江戸期にはこれが民間に広まり盛んに行われていたようです。
現在では廃れてしまいましたが、地方では親睦会に置き換えて庚申講を行っているところもあるようです。しかし、「朝まで宴会」の伝統はしっかり受け継がれていますね。暮れになると盛んになり、「ヱビスビール」も欠かせませんが、くれぐれも飲みすぎは禁物です。
次回の停車駅は渋谷駅です。


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