架けられたのは大正10年だがその橋桁は明治時代製!?

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[場所]秩父鉄道秩父本線 武州荒木-東行田

現役で日本最古級の鉄道用鉄製橋桁が、埼玉県の秩父鉄道秩父本線 武州荒木-東行田 間に存在する。それは見沼代用水に架かる「見沼代用水橋梁」のポニーワーレントラス桁で、製造は1887年(明治20年)頃と言われている。ところで、あえて橋桁と狭義な言葉を使っているが、これは橋梁としての竣工は1921年(大正10年)で、橋桁は他からの転用になるからだ。
とはいえ、ポニートラス現役鉄道用橋桁もしくは埼玉県内の現役鉄道用橋桁としては最古級とのことなので、ココで紹介する運びとあいなった。

東行田側から武州荒木向きに前面展望で眺めた見沼代用水橋梁。
武州荒木側から東行田向きに前面展望で眺めた見沼代用水橋梁。
ではナゼ埼玉県かと言うと、ただ単に近代日本経済の父渋沢栄一ブームに便乗して(汗)、当サイトでも北武地域から何か鉄道旅スポットを掲載したくなった中でコレが浮かび上がってきたからに他ならない(笑)。
ということにより、同橋梁を羽生(東北東)方の武州荒木駅側から訪ねてみた。

武州荒木駅プラットホームから眺めた見沼代用水橋梁。7000系デハ7001を先頭にした7001Fがいる辺りの赤い構造物が同橋梁。踏切は手前が「武州荒木No.3」で、奥が「武州荒木No.4」。
見沼代用水橋梁は、左岸(東側)なら武州荒木駅から西南西約300mほどの所にある。ただし線路沿いには道がないので遠回りしていくことになる。
では橋梁へ向かって歩いていこう。

武州荒木よりの武州荒木No.4踏切付近から西北西眺めた見沼代用水橋梁。左が下流。川岸に道はあるが線路部分に踏切がない。
それと左岸の川沿いの道には線路を越える設備も近くにないので、北側を通る県道7号側から行く場合なら見沼代用水橋梁の武州荒木寄り袂から30mほど東北東方にある細道の武州荒木No.4踏切を渡って一旦南へ迂回するのが便利だ。

■まず左岸下流方から眺めていこう
左岸の下流(南南東)方には、上の位置から南(写真左)側へ200mくらい迂回して辿り着くことができる。

見沼代用水橋梁の下流側からの眺めで右が武州荒木方。電車は7500系7502F秩父ジオパークトレイン。
左岸の下流側からのサイドビュー。トラスがピン結合なのが解る。
橋梁を間近に眺めてみた。横桁が下に脹らんでいるのが見てとれるが、これを魚腹形という。
さらに近づいてトラス主構の内側も眺めてみた。バリアングルモニターにて撮影。
対岸の右岸の橋台。レンガ積みだ。
左岸下流側から撮った、見沼代用水橋梁を渡る7500系7503F。ラグビーワールドカップ2019のラッピングを施していて一見古い写真に見えるが、これで2020年10月の撮影(キッパリ)。タイトルの連続写真でもある。
ポニーワーレントラス桁とは、ポニーが主構のみで上横構・橋門構などがなく上方が開放された形式を指し、ワーレントラスは斜材を上向き・下向きと交互に組んだトラスをいう。さらにこの桁には、錬鉄製・平行弦・ピン結合・下路式・単線といった言葉も付けられるが、こちらは日本語なのでだいたい想像がつくだろう。
桁は英国系のパテント・アクスル社によって製造したポーナル型で、スパン長は100ft(30.24m)になる。

■次は左岸上流側へ行ってみよう
左岸の上流(北西)方には写真7枚上の地点へ戻り、さらに150mほど北上(同写真右)した所にある県道7号を迂回して辿り着ける。

左岸上流から眺めた見沼代用水橋梁。左が武州荒木方。電車はまたもや7500系7503Fラグビーワールドカップ2019ラッピング(war cry)。
左岸上流からのサイドビュー。
左岸の橋台もレンガ積み。横桁の魚腹形も見える。
上同地点から眺めた対岸の右岸の橋台。
左岸上流から間近に眺めた橋梁。バリアングルモニターにて撮影。
左岸上流側から撮った、見沼代用水橋梁を渡る7800系7804F。
見沼代用水はこの名前が示す通り、現在のさいたま市東部に広がっていた見沼溜井を、江戸時代の享保の改革の一環により干拓して新田を開拓するため、その溜井に代わる水源として現・行田市の利根川から約80kmにわたり開削した灌漑用水路だ。同水路の普請は、江戸幕府8代将軍徳川吉宗が1727年(享保12年)に、紀州藩士から幕臣になった井沢弥惣兵衛為永を勘定吟味役に登用して、工事を約1年で完成させた。
なお、見沼代用水の一部は元からある河川の星川の流路を部分的に改修して使用している。

■見沼代用水の右岸へは県道7号の棒川橋を渡るのが近い
対岸の右岸へは、先ほども通ってきた県道7号に見沼代用水を渡れる歩道併設の道路橋「棒川橋」が架かっているので、またそこまで戻って代用水を渡り、迂回していくのが最短距離になる。渡ってスグの県道7号から左に出ている道を左折すれば100m少々で武州荒木No.5踏切に着く。

東行田寄りの武州荒木No.5踏切付近から北東向きに眺めた見沼代用水橋梁。電車は羽生へ走りゆく7800系7803Fの後追い撮影。
ところで見沼代用水橋梁が架かる現・秩父鉄道秩父本線 羽生-行田(現・行田市) 間が開通したのは1921年(大正10年)4月1日のことで、この時の会社は「北武鉄道」だったが、1922年(大正11年)9月18日に秩父鉄道がその北武鉄道を合併して、同区間も秩父鉄道秩父本線になっている。

右岸下流側に近づく途中。架線柱が古レールなのも注目点。
右岸下流側の袂へさらに近づいてみた。川面に橋梁下面が写っているが、波紋で構造を確認するまでにはいたらなかった。
横桁のアップで、この下に横構も付いているのが窺える。
右岸下流側から撮った、見沼代用水橋梁を渡る7800系7804F。
ちなみに右岸の場合、上流側は民家の敷地なので立ち入りができないため写真はない。
余談になるが、県道7号に架かる棒川橋の欄干に付けられた河川名の銘板には「星川」と、元々の名が記されていた。地元だと見沼代用水をコチラの名称で呼ぶのが一般的ということだろうか? 気になる点ではある。
また冒頭で、渋沢栄一云々を述べたけれど、見沼代用水橋梁は橋台にこそ埼玉県上敷免の日本煉瓦製造のレンガがかなり使用されているとはいえ、橋桁に関しては直接の所縁がない(汗)ことを申し添えておく。

橋桁はドコからきた?

上にも記したがココに架かる橋桁が製造されたのは1887年(明治20年)頃で、橋梁の竣工は1921年だが、それからおよそ34年前の橋桁がナゼ転用されたのか?
それは、この形式のトラス桁は明治の頃に開通した幹線で使用していたが、設計荷重が小さいため輸送需要の増大による機関車の大型化で幹線での使用に耐えられなくなってしまった。だが地方鉄道での使用には十分に対応できたため、幹線で撤去された桁がそのまま廃棄にはならず、払い下げられていたそうで、その一つが見沼代用水橋梁へ転用されたとのことだ。
さてこの橋桁がドコに架かっていたのか、出自を知りたいトコロであろう。ところが文献によって「官設鉄道」説と「日本鉄道」説の2通りがあり、未だ絞りきれていない。
なのでそれならと筆者なりに両鉄道の1887年~1888年くらいに開通した路線からの転用ではないかと考え、調べてみると官設鉄道では 横浜(初代:現・桜木町)-国府津 間(横浜-保土ヶ谷 間は現ルートとは別)、日本鉄道なら 黒磯-岩切 間と 小山-桐生 間がこの2年の開通区間だったので、その中からワンスパン約30mの橋梁をグーグルマップで、まずは現・JR両毛線区間を探してみたのだが、該当する橋梁は見つからなかった。
とりあえず、探索に疲れたのでコレにて休憩で…(謝)。その後に100ft橋梁探しは再開していない(笑)。
この項はグーグル鉄の楽しみ方の一つのスタイルとして書いてしまったのもある。駄文お許し願いたい。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。