遠州鉄道の高架駅下にある史跡を訪ねてみたら… 

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[場所]遠州鉄道 遠州病院駅
静岡県にある遠州鉄道の起点 新浜松駅 から2コ目の 遠州病院駅 の高架下に「徳川秀忠公誕生の井戸」という史跡がある。徳川秀忠公とは「江戸幕府2代将軍」なことは皆さんご存知と思う。
さて、遠州鉄道 新浜松-助信 間は1985年12月1日に高架化されたのだが、同時にこの辺りの線路がルート変更されたのは有名な話しだろう。その時に 新浜松-(現)遠州病院 間は新川の暗渠上に新ルートで高架線を造ったわけだけど、本来は線路から離れていた新川沿いにあった同史跡の上に現ルートが取られたこともあり強引に高架を造ってしまったのではないか、との勝手な憶測を立てて、面白いエピソードを期待して訪れてみた。

遠州鉄道 新浜松-助信 間は1985年12月1日に高架化された。それ以前の「遠州病院」に相当する駅の名称は「遠鉄浜松」で、高架化の際に少し西に移転され「遠州病院前」に改称された。その後 遠州病院 が移転したため2007年4月1日に現在の駅名にさらに改称されている。車輛は2000形。
しかし実体は、高架線完成後に都市整備事業の一環として、当地から西に50mほどの場所に明治時代まで存在した「家康公の側室である西郷局が秀忠公を生んだとき、産湯としてこの辺りにあった井戸水が使われたという伝承をもとに作られた井戸」だった。物件はいわゆるモニュメントということになる。

誕生井戸は下り線(西)側プラットホームへ連なるエスカレータの脇下にある。厳密には高架下ではないが、それでもこの位置関係には驚かされる。これが本物の「誕生井戸」なら、鉄道珍風景に十分数えられただろう。
誕生井戸の解説が書かれた灯篭で、碑文には「誕生井戸はここの西方約五十メートル位のところにあった。昔、その一帯は旧城下であり家康の在城当時には下屋敷が構えられていた。二代将軍徳川秀忠の生母は、家康の側室西郷の局で秀忠の出産は同下屋敷でおこなわれた。その時使われた産湯の井戸を誕生井戸という。その井戸は明治の頃まで残っていたそうである。また、ここの北方の誕生橋は秀忠の産まれた下屋敷が誕生屋敷と呼ばれたことに因んでの命名である。浜松市」と記されている。
これが 誕生井戸 で、見学は自由にできる。
誕生井戸の手前に立つ説明板。この井戸のひな形になった井戸から汲み上げた井戸水が産湯に使われたということが読み解ける。
遠州病院駅は新川の暗渠の上に造られた高架駅で、高架下部分の道路の盛り上がりは橋であることの証し。

遠鉄浜松駅跡を偲ぶモニュメントもある

遠州病院駅が1985年12月1日の高架化時にルート変更されたのは先述したが、これにより駅の位置が少し移転して、それ以前には駅名も「遠鉄浜松」を名乗っていたが改称された。その場所を回想できるモニュメントが同駅から東へ100m弱の所に造られているので、せっかくなので、こちらも訪ねてみた。

歩道西側の碑には「遠鉄浜松駅跡」の文字が刻まれている。中央の柱の右端から奥に、旧線跡を整備した遊歩道が延びている。
歩道東側の碑には「遠鉄旧線路跡」の文字が刻まれている。地平時代の線路はこの先 遠州馬込駅 まで進み、そこでスイッチバック(方向転換)をして 新浜松駅 へと至っていた。
位置的にはJR浜松駅前から北へ延びる道路の広小路沿い西側に建つ浜松市のクリエイティブスペース施設 クリエート浜松 脇の歩道上にあるのだが、このモニュメントの面白い点は「遠鉄浜松駅跡」の碑と「遠鉄旧線跡」の碑が、歩道を挟んで別々に立っていることにあろうか。それに加えてこの碑の間に電車が地平を走っていた頃の線路跡をタイルの敷設により再現してあるのも注目点だろう。この表現もあると、かつての線路の向きが判りやすくてベストな手法だと思う。このタイルによる表現は2017年3月15日アップの「横浜 汽車道を歩く」(←その記事はココをクリック)の中でも出てきているので、最近になって広まっているやり方なのかなとも思う。
さらにこの地点から北西方向、いわゆる クリエート浜松 の北縁から北西を向くと旧線跡を整備した遊歩道が延びているのが目撃できる。

上々写真の中央の柱の右端から奥に続く旧線跡を整備した遊歩道。カーブ地点ではあるが、左にプラットホームがあり、そのさらに対面には 遠州鉄道奥山線 の乗り場があったとのことだ。
また、クリエート浜松 東側の広小路沿いのこの地点から北を向くと、彼方を遠鉄の高架線が横切っているのが遠望できる。いまでこそ、線路がルート変更されてさらに高架にもなっているので、現在のクルマがストレートに走れる光景はドライバー側から見て違和感がないが、かつて、旧線ルートでおまけに地平を通っていた時代には、国鉄(現JR)浜松駅前から延びる、見方によっては一本道ともいえる駅前からのメイン通りが、同じ鉄道線の線路を踏切で2度も渡るわけで、クルマの運転者からしたら何とも納得しがたい状況だったのではないかと想像できる。

広小路の歩道に敷かれた旧線跡のタイルを南側から北向きに眺めたところで左端の柱はクリエート浜松の北東角。はるか彼方に遠鉄の高架線が遠望できる。いまでは高架線だが、1985年12月1日のルート変更以前にはそこは踏切で、タイルの位置で踏切を渡り、なおかつ現在の高架線の位置で踏切を渡っていたわけで、道路は名称上は違う道ではあったが、実質的には同じ道筋で同じ鉄道線の線路を踏切で2度も渡っていたという、クルマの運転者側からしたら、煩わしい道路だったことだろうと想像できる。
上の写真とほぼ同地点からの地平時代の1984年12月の写真が、モノクロながら撮ってあったのでお見せするとともに、せっかくなので 新浜松駅 までの旧ルートも同日撮影の写真で辿ってみたいと思う。

地平時代の 遠鉄浜松 の駅舎。上写真とほぼ同地点からの眺めで、手前のビル(駅舎)と2番目のビルの間に踏切がある。右のビル2番目と3番目は外装こそリニューアルされているが、現在写真にもある「遠鉄旧線路跡」のタイルから1番目と3番目の建物が同じビルなことが窺える。ちなみにその間の2番目の建築物は建て替えられているようだ。
せっかくなので、ここから 新浜松駅までの経路を1984年12月当時(以下同日撮影)の写真で停車場ごとに辿っていくことにしよう。まずは 遠州浜松信号場 で、西北西側からの東南東向きの眺め。位置的には現在のアクト通り付近になる。
スイッチバックである 遠州馬込駅プラットホーム西寄りからの西向きの眺め。線路2本のうち左に延びるのが 新浜松駅 方面で、右に延びるのが 遠鉄浜松駅 方面。
遠州馬込駅を、南側に広がっていた遠鉄バス駐車場ごしに眺めたところで、現在の 遠鉄バスターミナル営業所 付近になる。停っている車輛は30形。手前の2両のモノコックバスが懐かしい。
新浜松駅の駅舎を南西側から眺めたところで、現在 ホテルクラウンパレス浜松 がある辺りにあった。1984年12月の撮影なので、1981年2月4日に道路拡張のために線路が東へ0.1km短縮された以後の仮駅舎になる。
久々に 名所旧跡 ネタのみで流すつもりが、物件がモニュメントだったというのもあり、結果テツネタの方がメインの内容になってしまった気がする。まぁコンセプトが 鉄道旅 のサイトなのだから良しとするか。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。