鉄道旅を一層たのしくする車窓・施設案内シリーズです。
今回は東京。いつも乗っている方も多いと思いますが、知ってると面白いですよ。
今と橋を架けた当初とではまるで地形が違う!?
東京都の荒川放水路と中川に架かる東京メトロ東西線・荒川中川橋梁は、下路ワーレントラス橋が川から見て堤防の外の市街地部分にまで伸びているが、なぜそんな構造になっているのか、疑問に思っている人は多いのではなかろうか。実は、これには東岸の西葛西寄りに限っていえば、建設時の状況が大きく関わっているのだ。
日本一だった荒川中川橋梁
その理由を話す前に、荒川中川橋梁が日本一のタイトルホルダーだった時期があったということを、まず解説しよう。ちなみにこの橋梁の長さは1236mある。帝都高速度交通営団(当時)東西線の東陽町-西船橋間が開業したのが1969年3月29日で、同日にこの橋梁も供用を開始した。これにより、それまで在来線日本一の長さを誇っていた国鉄(当時)羽越本線新津-京ヶ瀬間に架かる阿賀野川橋梁の1229mを抜いて在来線日本一の長さになったのだ。しかしそのタイトルも長くは続かなかった。 1970年8月20日に国鉄(当時)鹿島線が全通して延方-鹿島神宮間にある1236mの北浦橋梁が供用開始して1位タイになり、1973年4月1日には国鉄(当時)武蔵野線府中本町-新松戸間が開業して北朝霞-西浦和間に架かる1292mの荒川橋梁が供用を開始して2位タイになってしまった。
だが、私鉄の橋梁での長さ日本一のタイトルは以後も続くことになる。しかしこれも1991年に竣工した南海空港線りんくうタウン-関西空港間にある3750mの関西国際空港連絡橋(スカイゲートブリッジR)にタイトルを譲ってしまった。ただしこの橋梁はJR関西空港線との共同使用であり、これを純粋な私鉄の鉄橋と見なしてよいものかは、意見が分かれそうだ。
建設当時は橋脚すぐの下まで海だった
では、荒川中川橋梁が市街地部分にまでなぜ伸びているのかの話しに戻そう。前述した東岸の西葛西寄りに限ってのことだが、実はワーレントラスの端部袂にある橋脚すぐの下まで海だったのだ。川ではなく海だ。
現在では海岸線ははるか南の約2.5km程先に遠ざかってしまったが、確かにここは海であった。営団東西線が開通した直後に乗った時、1969年当時小学生であった私の記憶にも、この区間が海の上を渡っているような景色だったことをはっきりと覚えている。
そんなわけで、上記の記憶を証明したく、ここが海岸線であったことの痕跡が何か残っていないかと、荒川中川橋梁の袂を訪ねてみた。
訪れて判ったことは、海岸線であった痕跡がまだまだ残っていた点、そして何と、ここに防潮堤があった碑まで建っていたことだった。界隈の現地レポートは写真に譲るとして、ここで、その“旧葛西海岸堤防記念碑”の解説文を全文掲載しよう。
[旧葛西海岸堤防の碑]
今では懐かしい潮の香りの中、ひっそりとたたずむ旧葛西海岸堤防。その淵源は、遠く江戸時代にさかのぼり、潮除堤(しおよけつつみ)が築かれておりました。
かつての葛西沖には、三枚洲と呼ばれる遠浅の海岸が続き、魚介類の宝庫として、そこに暮らす人々に大いなる恵みを与えておりました。しかし、この豊穣の海は、台風や高潮などで度重なる被害をもたらす脅威でもありました。堤防の強化は、住民の切なる願いでありましたが、その願いとは裏腹に、第二次世界大戦の勃発や戦後の資材難と労力不足により事業は遅々として進みませんでした。
こうした中で、1949年9月に東京湾を襲ったキティ台風による高潮は、江戸川区内だけでも被害者6万2千人余りの甚大な被害をもたらしました。この災害を重大に受け止めた東京都は、早速、堤防工事に着手、1957年3月に延長4,461mの葛西海岸堤防が完成いたしました。
その後、急速な都市化が進む中、地下水くみ上げなどによる地盤沈下で、堤防の嵩挙げ工事を繰り返さざるを得なくなり、伊勢湾台風規模にも耐えられる現在の高さの堤防として完成させるのに、1967年までかかりました。
しかし、一方で、堤防は人と海との関りも遮断してしまいました。そのころ、東京湾の汚染は葛西沖にも押し寄せ、人々に魚業権を放棄させ、さらに、止むことのない激しい地盤沈下は、住民に新しいまちづくりを行う決断を強く迫りました。
そして、意を決した葛西の人々は、ひとかたならない勇気と決断、そして熱意で7地区575haの組合施行の土地区画整理を断行いたしました。その後、東京都も葛西沖開発土地区画整理事業を完成させ、380haにも及ぶ防潮堤の役割を兼ね備えた新たな土地を生みだしました。
こうしてかつての葛西沖は、清新町や臨海町として生まれ変わり、さらに、葛西臨海公園には美しい海岸線も見事に甦り、海岸堤防は、葛西の大発展を見守りながら、その役目を終えました。
そこで、ここに旧葛西海岸堤防の一部を残したことを記した碑を建立し、海と共に生きた葛西の姿と先人たちの偉業を永遠にとどめたいと思います。平成17年3月 江戸川区長 多田正見
訪れてみて、自身の記憶が間違っていなかったことが証明され、ホッとした。いまでこそ、江戸川区の中心が葛西付近や都営地下鉄新宿線沿線のように見受けられるようになっているが、ほんの40年前までは、両者とも、その辺りは田園が広がっていた土地だったのを、当時この辺を自転車やオートバイで走り回っていた私はかなり覚えているが、そんなことをいまの若い者に語っても実感がわかず、分かってくれまい。
[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。
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