鉄道旅を一層たのしくする車窓案内シリーズです。今回は上越線。
上越線の絶景「綾戸渓谷」
上越線は、1982年の上越新幹線開通以前は首都圏と新潟圏を結ぶ大動脈であり、上越新幹線開通後も、水上などの有数の温泉地を結ぶ観光路線であるので、上越線利用中に、津久田駅から岩本駅側に4km程進んだ地点で棚下トンネルを抜けたとたんに渓谷が開け、そこで鉄橋を渡る一瞬に見られる絶景を記憶している方も多いと思う。
ここは群馬県渋川市と沼田市の市境あたりに位置する利根川が刻んだ綾戸渓谷という景勝地で、太古の昔に、東に聳える赤城山の火山活動により、西側にある子持火山付近の裾野が利根川の浸食を受けて形成された峡谷であり、春の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と、季節により四季折々の表情を楽しませてくれる、いわゆる電車の車窓を楽しませてくれるチラ見せスポットである。しかしここはそれだけの地点ではないのだ。実はこの鉄橋から下流(下り電車から見て左)側500m程の場所にある、利根川に張り出した大きな岩塊には幾多のストーリーが刻まれているからだ。
古くから交通の難所
この岩塊は『児子岩』と呼ばれていて、子持火山の下にあるそれよりも古い古子持火山の溶岩が流れ出し固まった岩と言われている。前橋方から沼田を結ぶルートは、江戸時代中期までは東岸の沼田街道を利用するのが主流だった。そちらには曲折・上下する難所が多いにも関わらずである。それは、利根川西岸ルートはほぼ平坦ではあったが、この児子岩が、ここを越えるために七曲り十八坂越えという山越えをするためにわざわざ迂回するという難所になっていたためだ。そこで、この不便を解消すべく1846年に沼田町の金剛院第二十六世住職・江舟が主導してこの岩に隧道の切開を計画して、11年ががりで幅・高さ2尺(0.6m)、長さ17mの穴を貫通させた。これを『綾戸の穴道』と呼び、1863年にはこれをさらに拡幅して人馬が通れる大きさにまでに拡げ、その後は渋川-沼田間の主要ルートはこちらに移っていった。
時代は明治に移り、1901年には綾戸穴道の山側に綾戸隧道が開通して使命は完了していた。しかし、三国街道が1952年に一級国道17号に指定されたということもあり、1961年にこの区間の拡幅計画が持ち上がり1962年には工事を開始した。そして綾戸隧道はその工事で渋川側の坑口を広げるために発破をしたところ切削線より大幅に崩落し、綾戸穴道の遺構も埋もれてしまったという結果を招いてしまった。
鉄道も通っていました
さて、この三国街道時代の綾戸隧道には鉄道が通っていたという驚きの事実もある。旅客輸送はもちろん、上流にダムの計画もあり、渋川-沼田間に鉄道敷設の話しが持ち上がり、利根軌道により1911年に馬車鉄道で敷設され、1918年には全線電化されたのだ。この鉄道は三国街道に添って敷設され、この区間ではなんと綾戸隧道を通っていた。ちなみにこの鉄道は上越線工事の資材輸送にも活躍したが1924年に上越南線が沼田まで開業したことにより休止、翌年の1925年に廃止されている。
綾戸渓谷の交通は変わる
現在では、国道17号線の綾戸バイパスの計画が2030年供用開始予定で持ち上がっており、それが開通すればこの綾戸隧道もメインルートとしての使命を終える。綾戸穴道は、崩落したとはいえ『近世以前の土木・産業遺産』に登録されている点を鑑みると、もっと昔にこの綾戸バイパスの計画が持ち上がっていれば、発破も行わず、綾戸穴道の崩落もなかったはずなので、そうなれば大分県中津市の青の洞門に匹敵する産業遺産として高い評価を受けていたかも知れないかと思うと、残念でならない。
[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。
鉄道旅を一層たのしくする車窓案内シリーズ
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