「徳川氏発祥の地」の標柱が立つ駅

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[場所]東武鉄道 伊勢崎線 世良田駅

2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」とのことで、おそらく主人公はいずれ徳川家康を名乗る人だと思われる。家康公といえば、生まれた頃は「松平」姓だったが、永禄9年12月29日(1567年2月18日)に「徳川」に改姓しているから、本記事はこの書き出しになった。では、この「徳川」の姓はドコから出てきたのか? 本来、鉄道旅のサイトなのでド~でも良いネタだけれども、ヒョンな切っ掛けで、東武伊勢崎線(スカイツリーラインではない)世良田駅脇に「徳川氏発祥の地」の標柱を発見してしまったため、どのように関わっているのか、真相を確かめるべく訪ねてみた。
なお、筆者は日本史の専門家ではないので、記事は基本的には紀行モノ風に纏めるに留め、文末の結びのセリフにて少しだけ私見を記すのみとさせていただく。

「徳川氏発祥の地」の標柱は世良田駅1番線(伊勢崎方面)側の脇に立っている。電車は8000系列850型クハ851-3。言い訳になるが、立ち位置的には黄色い線の内側にいる。
こちら館林側はモハ851-1。ということで、8000系列850型は、モハ85●-1が館林方、クハ85●-3が伊勢崎方になる。
世良田駅1番線に停まる850型851F。
「徳川氏発祥の地」の標柱は駅と反対側には文字がない。電車は850型851F。
世良田駅に掲げられている「ご案内」。
世良田駅前に立つ「おじま観光案内図」。上が北。
徳川家康というと三河国岡崎が出生地なのは有名だが、没後に東照大権現となり栃木県の日光東照宮へ元和4年(1618年)に主祭神として祀られているので、北関東にとっても由縁がある人物なことは広く知れ渡っていよう。そのような流れから、同じ北関東の世良田域内に東照宮があれば、ココが家康公につながりがある場所だろうと思うのは自然な流れで、上写真の地図を眺めていたら「世良田東照宮」の文字を発見したので、まずはそこを目指すことにした。

世良田東照宮社殿は日光東照宮旧社殿の一部を移築

世良田東照宮は世良田駅から南へ約1kmの、県道14号伊勢崎深谷線「歴史公園前」交差点の先約50m地点にある道を右(西)に入った場所に建立されている。

世良田駅から世良田東照宮へと向かう県道14号からは、送電鉄塔が林立している光景が眺められて、ウキウキしてくる道中である。
この赤門(長楽寺の勅使門)が「歴史公園前」交差点の目印。
赤門の説明板。
赤門の先約50m地点ある道を右(西)に入った突きあたりに建立されている社は「日枝社」で、この少し南に世良田東照宮の「御黒門」が建っている。

赤門の先(南)約50mのトコロに「世良田東照宮」へ到る道がある。
世良田東照宮の境内と周辺は「太田市歴史公園」になっている。地図では上が東。
上写真の案内板内の「徳川氏略系図」のアップ。
上写真の下に「徳川氏発祥の地おじま」の解説と、新田義重~徳川家康の「徳川氏略系図」が記されている。解説中に、祖に八幡太郎源義家を持ち血縁ではあるが、徳川家康とは直系ではない新田義貞が出てきたりして話がややこしくなっているが、要は家康公は新田氏の血筋で八幡太郎源義家の後裔になり、清和源氏の系図に連なっているという説明がなされている。

3枚上の写真の道の突きあたりに鎮座している日枝社。
日枝社の説明板。
日枝社から南30mほどの場所に建つ「御黒門」。ここが世良田東照宮境内の入口になる。
御黒門の説明板。「縁結び門」とも名づけられている。
御黒門をくぐり境内に入ると正面に建つのが世良田東照宮拝殿になる。この奥に本殿が建立されている。

世良田東照宮拝殿。この奥に本殿が鎮座している。
世良田東照宮の解説板。
世良田東照宮のご案内板。
世良田東照宮境内に建つ「上番所」。武具マニア必見!!
改修工事の作業場前に掲げられている「保存修理工事の紹介」。
世良田東照宮本殿は現在大改修の最中で、修復工事はあと4年ほど掛かる見込みとのこと。上写真はその工事の様子を参拝者へ伝へるために掲出されている説明プレート。

新田荘歴史資料館。世良田東照宮の南約120mほどの場所にある。
新田荘歴史資料館前に立つ新田義貞公の銅像。上州新田荘といえば、やはりこの方が有名だろう。
世良田東照宮境内に立つ群馬県太田市の観光地図で、上が北。世良田東照宮から南東約1,200mの地点にその名もズバリ「徳川東照宮」を発見。
新田義貞は徳川家康とは直系ではつながっていないが、元弘の乱にて同じ源氏の血筋の足利高氏とともに北条得宗家を滅し名を上げたので、やはり世良田あたりでは勇将として称えられている。
ところで、上写真の案内図に「徳川東照宮」の文字を見つけた方が居るのではないだろうか。筆者もその一人で、次いでそこへ向かうことにした。

その名もズバリ徳川東照宮

位置的には世良田東照宮から南東に約1km。ちょうど早川という河川が短絡ルートになっていて土手上が「早川サイクリングロード」に整備されているので、ここを歩いて行くことにした。

早川サイクリングロードも送電鉄塔好きにはワクワクの道だ。
徳川東照宮の社は「徳川」を名乗ってはいるが、よくある地域の鎮守様といった趣きの神社であった。まぁ世良田東照宮の社殿を見た後ということもあるので、期待しすぎたのもあるかも知れない…。

徳川東照宮は南向きに鎮座している。
徳川東照宮の境内参道脇には尾島かるたの「と」の項の看板も立っていた。

尾島かるた「と」の項。
徳川氏発祥の地のお話としては、こちらの方が簡潔に纏められていて解りやすいかも知れない。
そしてこの徳川東照宮の奥には「新田義重夫妻之墓」が造立されている。

徳川東照宮の東50mほどのトコロに造立されている「伝新田義重夫妻之墓」。
伝新田義重夫妻之墓の説明板。「徳川氏館跡の宝塔」とも称されている。

また、徳川東照宮の対面には「縁切寺満徳寺資料館」が建っている。

「縁切寺満徳寺資料館」。毎週月曜日は休館日なので、訪問する際は注意が必要だ。
■本記事中で紹介の名所・旧跡のURL
開館日・開館時間なども、こちらの下記URL内から。
●世良田東照宮
https://www.net-you.com/toshogu/

●新田荘歴史資料館
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/nittanosyho.html

●縁切寺満徳寺資料館
https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/mantokuji.html

実は徳川東照宮の辺りの地名は「徳川町」だった

徳川東照宮から南西200mほどの所で早川に架かる県道298号の橋は「徳川橋」の名が付けられている。さらにこの橋から南100mほどの所にある砕石場は「(株)國分徳川砕石場」という。
もぉお気づきと思うが、徳川東照宮が建立されている辺りは群馬県太田市徳川町という地名だったのである。

県道298号平塚亀岡線の早川に架かる橋の名は、なんと「徳川橋」。
徳川家康が以前は「松平」姓だったことは皆が知っていると思うが、その改姓した「徳川」姓が何処から出てきたのか、自分的には知らなかったし、出所を疑問にも思っていなかった。けれども、世良田の地を巡ってみて、徳川姓が新田の荘にある地名から発祥した、どちらかといえば世良田は「徳川姓発祥の地」なことが判った。そのうえ徳川氏が新田氏の血筋で、八幡太郎源義家の直系であることも解った。清和源氏の出自なら征夷大将軍に任命されたのもうなづける。
さて、ではどうしてココで徳川氏の記事をアップしたのか。それは大河ドラマへの便乗に他ならない(笑)。ナゼなら前回「鎌倉殿の13人」では大河紀行で義経岩巴塚が紹介されるかなと思って、放送直後にアップするべく記事を用意しておいたら、2箇所とも見事にスルーしていったので、この度は大河紀行を先回りしてアッブしてしまったモノである。なので放送されなくても悔いは残こらない(笑)。
そして、歴史に詳しい方においてはトーシローのタワゴトと等閑視していただけると有りがたい。

徳川橋から1本下流に架かる昭和橋から西を向くと「(株)國分徳川砕石場」が遠望できる。
実のトコロ、筆者的には上写真の砕石場や、道中に林立している送電鉄塔を眺めていた方が楽しかったりする(汗)。
それと、タイトル写真から、東武850型絡みの記事だと思ってウッカリ読んでしまった人、ゴメンナサイ(謝)。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。