名実ともに日本最東貨物駅のタイトルホルダーになった駅

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[場所]JR根室本線 新富士駅

JR根室本線 新富士駅は、元々JR貨物の貨物列車が発着する駅としては以前から最東に位置していたが、太平洋石炭販売輸送(株)臨港線がそれより東にあり、そこには当然貨物駅があったので、「日本最東の貨物駅」とは言いづらかった。しかし、2019年3月30日をもって臨港線が石炭輸送を終え、同年4月6日に「さよなら運転」を実施、同年6月30日をもって全線廃止されたことにより、同線の最東にあった貨物駅の春採駅などが廃止されたため、翌7月1日に新富士駅が名実ともに「日本最東の貨物駅」のタイトルホルダー駅に輝いた。

新富士駅貨物ホームで発車を待つDF200-114牽引の2094レ。上写真の右の列車の貨物ホーム転線後の姿で、同列車のコキ車は空の多い状態から、わずか1時間でコンテナが満載になった。手前が帯広方、奥が釧路方になる。
新富士駅は根室本線の中間駅なので、景観的には「最東」駅の実感が湧かないが、ここより以東には貨物列車は走らないので、「日本最東の貨物駅」なのは間違いない。
ところで、新富士駅は国鉄分割民営化直後はまだJR貨物の最東駅ではなかった。なので分割民営化後の最東駅の変遷を記すと、まず分割民営化当時は釧網本線 中斜里駅が最東貨物駅だった。しかし、同線の貨物列車の設定が1997年3月22日になくなったためタイトルが釧路駅に移行。その釧路駅は2006年4月1日にJR貨物が新富士-釧路 間の第二種鉄道事業を廃止したため、これにより新富士駅が「JR最東の貨物駅」になった。なお、この新富士駅だが、1984年2月1日に貨物の取扱いを一時終了している。だが、1989年8月1日に貨物扱いを再開したという経歴を持つ。

新富士駅の帯広寄りにある2本めの跨線橋上からの釧路方の眺めで、左は新富士駅貨物ホームから発車するDF200-111牽引の2092レ、右はその後に貨物ホームへ転線するDF200-114牽引の2094レ。14時スギから14時20分くらいに掛けて、これを含む下一連の3枚の写真の光景が展開する。
2092レが発車した直後に2094レが転線のため帯広寄りに引き上げる。
そして、スグに推進で貨物ホームに入線する。
ちなみに「日本最北の貨物駅」のタイトルホルダー駅は選定が難しく、定期貨物列車の設定だけで見ると宗谷本線 北旭川駅になるが、臨時貨物列車の発着も入れれば石北本線 北見駅になり、ORS(オフレールステーション)まで含めると 宗谷本線 名寄駅になるから、ややこしい。ましてORSまで入れると、最東の貨物駅は釧網本線 中斜里駅になってしまうので、これは考えものではある。まぁORSをも含めると、この記事が成立しなくなってしまうため、筆者的にはNGにしたいが。

前・日本最東の貨物駅はココ

2019年6月30日に太平洋石炭販売輸送 臨港線が廃止になったために、このタイミングを図ってアップした記事なので、せっかくだから、同線にあった、前・日本最東の貨物駅なども紹介しておこう。

春採駅の選炭場を知人駅(北北西)寄りから車止め方を眺めたところで、中央やや左にある建物は貯炭槽&ホッパ。この位置からは選炭工場からのベルコンは見えずで、一番右のベルコンは貯炭場(と思われる)へ、その左隣のベルコンは逆に写真枠外の右にある小屋から貯炭槽に続いていて、左奥のベルコンの先にはフライアッシュの堆積保管場所がある。
春採駅の車止めをその先(東)にある丘の上から知人駅(北西)方向に眺めた光景。中央が上写真の貯炭槽&ホッパで、左端の建物は選炭工場。ちなみに、車止めの先はかつて釧網本線 東釧路駅を経由して自社 城山駅まで線路が延びていたが、城山-東釧路 間が1985年6月1日に廃止、東釧路-春採 間が1986年11月1日に廃止と、国鉄分割民営化された1987年4月1日以前に廃止されている。なお、炭鉱に興味がある方は、2016年3月1日アップの「世界遺産 長崎県・高島炭鉱1983年の想い出」(←その記事はココをクリック)も合わせて読んで頂けるとありがたい。
知人駅を春採駅(東)側の丘の上から西向きに遠望した景色で、左が春採駅方。国内で最後に残った、貯炭場に設けられた高架取り卸線も間もなく撤去され、見納めになってしまうのだろうか。
臨港線の車輛の記事というとDE601が登場することが多いので、当サイトではD401を紹介しよう。1964年 日本車輛製55t機で、鉄道車輛としては日本に4両しかない車籍がある(休車含む)ロッド式DLの1両で、ある意味稀少車。これは春採駅北北西寄りに停車中の姿だ。ちなみにロッド式DLのもう3両は、青森県の津軽鉄道DD350形2両と、茨城県の関東鉄道DD502形。
臨港線は我が国で国産の石炭を運ぶ最後の炭鉱鉄道で、上の写真を見て頂けたら解る通り、春採駅には選鉱工場、知人駅には貯炭場と高架取り卸線といった、いまや日本唯一の炭鉱からの石炭採掘を担った、その一端である荷扱い施設の魅力的なストラクチャーが展開している路線だった。
それらの、かつて日本近代産業発展の礎になった石炭輸送設備があと少しの期間だけ眺められる場所として、これらが健在なうちに見ておきたい景観ではなかろうか。

ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。

[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。