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[場所]近畿日本鉄道 橿原神宮前駅
日本の私鉄・公営鉄道には、京王電鉄や東京都交通局など異なるゲージの鉄道路線を保有・運営している鉄道会社が数社存在している。この中にはJR新幹線や箱根登山鉄道のように異ゲージ路線が重なる区間で3線軌条になっている路線もある。しかし、これらの鉄道は1社を除いて各ゲージごとに検車区などを有しているため、検査のため駅などで台車振替をしてまで、異ゲージ路線へ乗り入れる必要がない。
さて、上記「1社」とは近畿日本鉄道(以後「近鉄」と表記)のことで、他の異ゲージを保有・運営している鉄道会社とは異なり、狭軌1,067mmゲージの電車が検車のため、台車を振替て回送列車として標準軌区間へと乗り入れてくる。
現在の近鉄の狭軌線は南大阪線系統のみだが、この系統で運行している電車の全般検査と重要部検査は標準軌線系統の五位堂検修車庫にて行っている。このため、接点駅である橿原神宮前駅は標準軌と狭軌が混在する駅配線になっており台車振替場には4線軌条がある。
■実はもぉひとつ4線軌条がある元近鉄の台車振替場
かつて近鉄には南大阪線系統以外にも狭軌線がかなり存在していた(762mmゲージは本記事の主旨から外れるのでココでは考えないことにする)。このうち養老線の電車は塩浜検修車庫で全般検査などを行なっていたが、その名残で、養老鉄道になった現在でも狭軌線である同社の電車は東方信号場にて台車振替をして標準軌区間の東方信号場↔︎塩浜検修車庫間をモト90形に挟まれて回送されている。
養老鉄道の東方信号場での台車振替は、作業建屋内において車体をクレーンより吊り上げて台車を交換する方式になっている。ただし、同信号場は桑名駅の大垣方0.7kmの距離にあるので、駅の間近にはなく、桑名駅からじっくり眺められる場所にはないため、本記事のメインにはなれなかった(笑)。
プラットホームの横に台車振替作業建屋がある橿原神宮前駅
橿原神宮前駅は標準軌の橿原線を狭軌の南大阪線系統がY字の線路配置で挟むスタイルになっている。
まずはそんな構内配線を見ていこう。
上写真の左2線が狭軌だが、このうち一番左の線が台車振替場へと続く線路になる。
ところで橿原神宮前駅がナゼこのような配線になったのか、コレは話が長くなるので省略(汗)。詳しく知りたい方は「橿原神宮前駅」+「大阪電気軌道(大軌)」「吉野鉄道」「大阪鉄道」などで検索をお願いする。
■台車振替場周りを眺めていこう
台車振替場の作業建屋は橿原神宮駅構内の東側の、まさに0番線プラットホーム脇と言える位置に建っている。ではいよいよ4線軌条があるその台車振替場を、南側(吉野方)から見ていこう。
橿原神宮前駅の作業建屋は屋根がそれほど高くなく、どのように台車を振替ているのか、方式が気になるトコロだろう。ココでの台車振替は、車体をジャッキに固定し、台車部分のレールが下降して台車を抜き取り、そのまま隣線部分へトラバースさせ、そこで上昇してその隣線へ手押しで移動する方式を取っている。なので、屋根はこの高さで十分なのだ。
橿原線↔︎大阪線間のルート
標準軌台車に履き替えた南大阪線系統の電車はモトに挟まれて橿原神宮前→五位堂検修車庫間を、全般検査などを完了した電車はその逆の五位堂検修車庫→橿原神宮前間を回送されるわけだが、このルートが気になっている人も居るのではないだろうか? 近鉄に詳しい方にはイマさらネタだとは思うが、ココで紹介しておこう。
近鉄の橿原線と大阪線は大和西大寺から奈良線を経由すれば鶴橋-今里間渡り線でつながっていることと、橿原線新ノ口-大阪線大和八木間に特急用の連絡線があることは当サイトの読者ならご存知だろう。
まぁ鶴橋-西大寺回りはありえないが、特急用連絡線ルートでも効率が良くない。では回送列車はドコを通っていくのか?
実は大阪線大和八木駅西側構内と橿原線八木西口は連絡線でつながっていて、この線路を使用して橿原神宮前-五位堂を結んでいる。
では、そんな連絡線を眺めていこう。
■八木西口駅側
八木西口駅側の連絡線との接続部分は駅北側にある。
注目点としてはプラットホームがある部分に片渡り線があるトコロだろうか。ホームに切り欠きなどがないので、当たらないのか気になってしまう。
■大和八木駅側
大和八木駅駅西側構内の接続部分は、新ノ口-大和八木間の特急連絡線と分岐器を兼ねている。
余談になるが、八木西口駅は大和八木駅の同一構内扱いとなっている。したがって、大和八木駅西側-八木西口を結んでいる連絡線は大和八木駅の単なる構内の線路ということになる。
ここに掲載の内容はアップ日時点の情報になります。その後に状況の変化や、変更があった場合にはご容赦ください。
[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。