鉄道旅を一層たのしくする車窓・施設案内シリーズです。
[場所] JR氷見線 越中国分-雨晴
富山湾西岸を走る氷見線は、観光列車「べるもんた」が運行される程の景観路線だが、その中でも越中国分-雨晴にある雨晴海岸は絶景区間と言われている。富山湾に突き出した岩礁の先に北アルプス立山連峰の雪山を望む写真を見たことがある方は多いと思うが、それが将に雨晴海岸だ。
さて、雨晴海岸の象徴ともいえる岩としては、氷見線の下り列車に乗ると越中国分駅を出発して300m程先のトンネルを抜けた後に車窓右手に富山湾が広がるが、そこに浮かぶ「男岩」と、続いて見えてくる「女岩」が有名だろう。だが「雨晴海岸」の名の由来になった岩は別にある。
それは女岩から200m程 雨晴駅寄りにある「義経雨はらし岩」で、1187年(文治3年)に源義経が京都から奥州の藤原秀衡の元へ赴く際に、ここを通りかかった折りに にわか雨にあい、この岩の下に家来ともども雨宿りをして、雨が晴れるのを待ったという伝説から、ここに「雨晴」の地名が付いたと言われている。
では、1187年以前にはこの海岸は何と呼ばれていたのか? 歴史や短歌が好きな方なら、奈良時代の貴族で歌人の大伴家持が、伏木の地にある国府に国守として746年(天平18年)から5年の間赴任してきており、その間にはこのあたりの風景を多くの歌に詠んでいることを解っているだろうから、雨晴海岸以前の名があって然りとの疑問が出てくるのではなかろうか。
ということで、そんな歴史を鑑み上写真の説明板の大伴家持の歌を読むと、奈良時代には雨晴海岸は「渋谿(しぶたに)」と呼ばれていたと導きだすことができよう。
また、雨晴海岸とすでに呼ばれていたはずの江戸時代に、俳人の松尾芭蕉が1689年(元禄2年)による紀行文おくのほそ道の越中 那古の浦で詠んだ句には「有磯海(ありそうみ)」の言葉が入っている。これはどこのことなのか、これまたややこしくなってしまう。
上写真の碑の左側に記されているのがその句だが、ここで言う有磯海とは、実は場所の名ではなく、海面上に突き出した岩礁のことで、まさに女岩を指している。言葉の出所を簡潔に纏めると、万葉集巻十七にある、大伴家持が越中で詠んだ歌の中の「海の荒磯」からであり、その後の歌人に詠まれていくうちに、平安時代には平仮名の「ありそうみ」に変型し、室町時代には「有磯海」の漢字があてられたと言われており、越中の代表的歌枕になっている。
車内から車窓を眺めているだけでは、ついつい見逃してしまいそうな「義経岩」のことを書くつもりが、結局は女岩の話しにまでなってしまった。何はともあれ、JR氷見線 越中国分-雨晴 間は、奈良時代・鎌倉時代・江戸時代と、この地に関った先人達に思いを馳せながら景色を堪能するのも一考かと思われる。
[寄稿者プロフィール]
秋本敏行: のりものカメラマン
1959年生まれ。鉄道ダイヤ情報〔弘済出版社(当時)〕の1981年冬号から1988年までカメラマン・チームの一員として参加。1983年の季刊化や1987年の月刊化にも関わる。その後に旧車系の自動車雑誌やバイク雑誌の編集長などを経て、2012年よりフリー。最近の著書にKindle版『ヒマラヤの先を目指した遥かなる路線バスの旅』〔三共グラフィック〕などがある。日本国内の鉄道・軌道の旅客営業路線全線を完乗している。
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